桜は自粛しない。

誰かや何かのためではなく、それが自然の営みだから。
桜は桜として桜を全うしているだけ。

何にも動じることなく我が道を生きている姿はライトアップなんかしなくても、いや、してないからこそ暗闇みの中でそのありのままの凛とした姿がひときわ映える。

それを見て、今年も春が来たって心が温かくなる。これを見て春が来たって感じたいでしょ。日本人だもの。

いつもと同じく、今年も精一杯咲いてくれてありがとう。


その人、そのモノ、その事柄しか持っていない力ってあるよね。

待っている人、楽しみにしている人たちがいる。そういうかけがえない力。



昨日の帰り道、千鳥ヶ淵から日比谷まで歩きながら、そんなことを感じました。

あ。
今年は例年より開花がおそかったんだっけ。桜もちょっと自粛したのかな(笑)。

でもやっぱり、その満開の姿を見られて私は嬉しい。

「充電池は最後まで使い切ってから充電するほうが長持ちする」



充電池の説明書にはよく、こんなことが書いてある。


その理由はなんなのかはわからないけど、

それって自分にも当てはまるなと思った。



何かに挑戦するときは、やれるだけのことはやる。

「これ以上はムリ!」ってぐらいまでやったら、

その結果がどう出ても自分でも納得できる。


例え自分が望んでいなかった結果でも、

「きっと今のタイミングじゃなかったのかもな~」とか

「縁がなかったってことだね」と、気持ちよく手放せる。

そして新しいことにまた挑戦して、いろんなことを吸収することに

エネルギーを注げる。



逆に中途半端に余力を残しておくと、

前のものへの未練に注がれるダラダラしたエネルギーのために、

次に吸収しようとしていることも、なんだか消化不良のまま。

そしてその消化不良の連鎖が続いていく。

自分が無駄に消耗される。


今ある力を出し切って、

そしてカラッポになったところで、思いっきりグンっと別のエネルギーを吸収する。

そしてまたそれを使い切るのがいい。

充電池のように。


ただ、充電池はいいコンディションでいくら充電したって長持ちしたって、

いずれは消耗・劣化していくベクトル。


しかし私たちは思いっきり何かを吸収できたとき、

その器をちょっと大きくできるベクトル。




うしこのお重箱-090920_1523~02.jpg

私が好きなエリアのひとつ港湾。

おびただしいおばけ積み木がメカキリンによって、ただ静かにテトリスをされている無人の世界。

それを傍観しているアリンコのような自分。

大きいとか小さいの感覚を忘れる。多分、そういう感覚が好き。自分が無。


そしてこれがおばけ積み木。雲のない青空に、まっすぐきりっとした輪郭のビビットカラーが見事に映える。

浮世絵とか、塗り絵のように、輪郭の中にベタったとした色が広がる感じが和っぽい。


空間の部分はどうしようか。

「何もないにしても、白で塗るとか、無の色を塗りなさい」

ロンドンでアートの勉強をしていた時、チューターに言われた言葉を思いだす。


何もない「間」「空」だから何も塗らなかったのに。
でも彼等には、何もしてない=未完成。

その感覚の違いが面白かった。


でも今日はばっちり。
OK、きれいな空色で塗りつぶしたよグッド!