懐中温泉です、
歴史シミュレーションその31
長篠の敗戦のあと、 勝頼は謙信から
「義を曲げるな、
甲斐の武はまだ尽きぬ」といった
趣旨の書状を受けている。
その一通に、勝頼は涙した
と伝えられていた。
「その涙を、 天下のために流し得るか」
謙信の問いは、唐突にも聞こえた。
勝頼は、一瞬目を細め、それから
静かに息を吐いた。
「上杉殿。今、東国は揺れております。
北条は小田原に籠り、
関東は殿の旗の下におさまりつつある。
我ら甲斐は、 徳川・織田に押されながら、
なお甲斐・信濃の山を守るのみ。
このままでは、『守る』という言葉も、
やがて『縮む』という言葉に
変わりましょう」
謙信は、勝頼の目を見た。
「ならば、『守るために動く』道を取るか」
「……それを聞きたく、
ここに参った次第にござる」
勝頼は姿勢を正した。
上杉側の「条件」
謙信は、前に置かれた地図を広げた。
越後 北陸 関東 甲斐・信濃
「我は、越後と北陸と関東を、
上杉の国として固めつつある。
その南に、甲斐・信濃がある。
甲斐と信濃が、上杉の国と“共に
守るべき地”となるか、
それとも、織田・徳川と“奪い合うべき地”
のままでいるか
それが、今のこの場の話よ」
勝頼は、地図に目を落とした。
「上杉殿は、甲斐と信濃を『上杉分国』
とされるおつもりか」
「いや」
謙信は首を振った。
「甲斐と信濃は、
あくまで武田の国であってよい。
我が求むるは、
甲斐・信濃と関東・北陸の間に、
『共に守るべき線』を引くことだ」
地図の上に、謙信は細い線を引いた。
甲斐から上野へ抜ける峠。
信濃から越後へ向かう谷。
「この線を、織田と徳川が勝手に
越えぬようにする。
そのために、武田と上杉が“
共に動く者”であればよい」
勝頼は、しばし黙した。
やがて、低く問う。
「そのための『条件』、聞かせて頂きたい」
謙信の目は、揺らがなかった。
「一つ。
武田は、今後『織田・徳川と単独で講和』
しないこと。
二つ。
甲斐・信濃のうち、 徳川の侵入を受けている
地には、 上杉より援兵を入れることを許すこと。
三つ。
関東において北条を押し下げる戦に、
甲斐は兵を出し、その見返りとして、
上野の一部を『武田の守るべき地』
として認めること」
勝頼は、一つ一つを聞き、 小さく頷きながら
噛みしめていった。
「……徳川との単独講和を禁じる、か」
「徳川が甲斐と講和し、
織田と共に関東へ手を伸ばせば、
北条を押す戦が乱れる。
それは、『天下を二つに割る』戦ではなく、
『天下を細かく裂く』戦になる。
私はそれを望まぬ」
謙信の声には、 天下の形を「割るべき場所」と
「割るべきでない場所」を見分けよう
とする者の調子があった。
「ならば、 徳川との戦は、上杉と甲斐が共に
負うこととなりまするな」
「そうなる」
謙信は頷いた。
「徳川が甲斐へ向かうときには、
関東の覇道を通じて上杉の兵も動く。
徳川が関東へ向かうときには、
甲斐・信濃の山から武田の兵も出る。
この『挟み』があればこそ、
徳川は東国の秤を一人では
揺らし得ぬ」
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
