懐中温泉です、
蒸気機関物語―それぞれの幸福―33
第二十話 火で水を上げる
「鉱夫の友」は、どう働いたのか
結は、朝から台所の流し台の前に立って
いました。
蛇口をひねる。
水が出る。
指で止める。
水が止まる。
またひねる。
水が出る。
あまりに当たり前で、ふだんなら考えもしない
動きです。
けれどセイヴァリーの機械について書こうと
していると、結には、水を「出す」ことも、水を
「止める」ことも、急に複雑な技術に見えて
きました。
水は勝手には上へ行かない。^
低い方へ流れる。
穴があれば漏れる。
管が詰まれば止まる。
そして、いったん深い坑道にたまれば、
地上へ戻すには、誰かが力を加えなければ
ならない。
結は、紙に二つの容器を描きました。
左の容器に「A」。
右の容器に「B」。
その上には、蒸気を送るための管。
下には、坑道の水につながる管。
さらに、水を上へ送るための管。
管の途中には、小さな弁の印をいくつも
書き込みました。
「弁を間違えたら、どうなるんだろう」
たぶん、水が逆流する。
蒸気が逃げる。
圧力がかからない。
あるいは、熱い蒸気や水が、思いがけない
方向へ出る。
セイヴァリーの機械は、黒い梁がゆっくり
上下するニューコメン機関とは違います。
大きなピストンもない。
坑道の奥まで下りるポンプ棒もない。
蒸気を容器へ入れ、水を動かす。
その仕事は、容器のなかで進む。
まず、容器に蒸気を入れる。
蒸気は、容器のなかにあった空気を追い出す。
次に、蒸気を止める。
容器の外側へ水をかけて冷やす。
熱い蒸気は水に戻り、容器のなかの圧力が
下がる。
そこへ、坑道の水が下の管から引かれてくる。
水が容器を満たしたら、下の弁を閉じる。
もう一度、ボイラーから蒸気を入れる。
今度は、蒸気が容器に入った水を押す。
水は上へ向かう管を通り、地上へ、あるいは
次の段へ送られる。
吸い上げる。
押し出す。
吸い上げる。
押し出す。
二つの容器を交互に使えば、一方が水を押し
出しているあいだに、もう一方は次の水を吸い
上げられる。
紙の上では、見事な仕組みでした。
結は、二つの容器のあいだに矢印を書きました。
Aが吸うあいだ、Bが押す。 Bが吸うあいだ、Aが押す。
「休まないように、二人で働くんだ」
そう言うと、機械が急に人のように思えてきました。
二人の人が桶を渡し合うように。
一人が水を受け取る。
もう一人が上へ運ぶ。
次は交代する。
その繰り返しで、深い場所にある水を地上へ
近づけていく。
けれど、機械は人ほど器用ではありません。
容器を冷やすには水がいる。
また蒸気を入れれば、冷えた容器を温め直さ
なければならない。
蒸気を水に触れさせるたび、熱の多くが失われる。
火を焚くためには石炭がいる。
石炭を運ぶ人もいる。
そして、深い場所から水を「吸い上げる」ことには
限度がある。
結は、ここで少し手を止めました。
「吸う」という言葉が、少し誤解を招く気がした
のです。
機械が水を口で吸うわけではない。
容器のなかの蒸気を冷やして、内部を空っぽに
近づける。
すると、外にある空気が、水面を押す。その圧力に
よって、水が管を上がってくる。
水を上げているのは、見えない大気です。
けれど大気の力にも、届く高さには限りがある。
あまりに深い場所の水を、一度に地上まで
引き上げることはできない。
そこで、セイヴァリーは深い坑道なら途中に
機械を置く場所を作り、段階を分けて水を
上げる方法も考えたようです。
結はその文を、ゆっくり書きました。
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
