書かなければ残らない | 「中年の危機」に陥った、ごく普通の50代男性が、3日・2週間・1ヶ月の3段階で人生をやり直す、潜在意識活用システム 真「幸せの時間」

「中年の危機」に陥った、ごく普通の50代男性が、3日・2週間・1ヶ月の3段階で人生をやり直す、潜在意識活用システム 真「幸せの時間」

潜在意識の働きで、あなたは「スーパーなあなた」になるのです。そのための素材・方法も実はあなたの手元にすでに多くあります。ここでは、あなたがそれを見出し、活用するお手伝いをいたします。胎児(あなた)は、胎児(あなた)の夢により進化します。

懐中温泉です、

 

蒸気機関物語―それぞれの幸福―25

 

 

誰かが残したから、結は読めた。

 

誰かが手渡したから、自分の机まで来た。

 

史料は、昔から現在へ、ただ届くわけでは

ない。

 

何度も人の手を通る。

 

ヘロンの本も同じだったのではないか。

 

結はそう思いながら、少しだけ不安になり

ました。

 

いま自分が書いているこの物語も、いつか

誰かに読まれるのだろうか。

 

読まれないかもしれない。

途中でやめてしまうかもしれない。

 

五十話まで書いても、誰かが「蒸気機関の

話なのに、なぜ温泉ばかり出てくるの

だろう」と思うかもしれない。

 

それでも、書かなければ残らない。

 

結は、ノートの一番下に書きました。

 

書物は、知識を保存する箱ではない。


何度も人の手を通り、読み直され、時には

誤解されながら、未来へ渡っていく乗り物

である。

 

列車が来る知らせが流れました。

 

結はノートを閉じ、鞄へしまいました。

 

ホームへ出ると、線路の向こうに朝の光があり

ました。

 

列車は遅れていたぶん、急ぐようにではなく、

ゆっくりと近づいてきました。

 

結は乗り込み、窓際の席に座りました。

 

列車が動き出すと、温泉街の屋根のあいだから、

白い湯気が見えました。

 

それは、すぐに遠ざかっていく。

 

けれど結のノートには、まだ残っている。

 

火と水と空気。

回る球。

開く扉。

 

それを書いた人の名。

 

そして、その名が、何度も読まれ、写され、

忘れられ、また見つけられてきた時間。

 

結は次の頁を開きました。

 

真空はあるのか
――空っぽの場所をめぐる長い問い

 

第十五話 失われた本、戻る知識

 

ヘロンは、どこまで残ったのか

 

駅の待合室で、結は古い本のことを考えて

いました。

 

列車は少し遅れていました。

 

電光掲示板には「安全確認のため」とだけ

表示されている。

 

理由は分からないが、急ぐ人はいないよう

でした。

 

旅行鞄を足元に置いた人、新聞をたたむ人、

眠っている子供の背中をさする母親。

 

結はベンチに座り、鞄からノートを取り出し

ました。

 

昨日書いた、神殿の扉の話を読み返す。

 

火が灯る。

空気が温まる。

水が移る。

 

重りが下がる。

扉が開く。

 

この仕組みを、遠い昔の誰かが書き残した。

 

それがなければ、結は二千年近く後の

温泉宿で、その扉を想像することも

できなかった。

 

「書くって、変なことだな」

 

結は小さく言いました。

 

書いた本人は、未来の読者を知らない。

 

誰が読むかも分からない。

 

何百年後に、どこの国で、どんな言葉に

訳されるかも分からない。

 

それでも、紙や羊皮紙や巻物に、火と水と

空気のことを書き残す。

 

すると、その本は書いた人の手を離れる。

 

誰かが読む。

誰かが写す。

誰かが別の言葉へ移す。

 

誰かが、読めない文字を前にして首を

かしげる。

 

誰かが、いらない本だと思う。

誰かが、残そうと思う。

 

そうして知識は、まっすぐ進むのではなく、

何度も途切れながら、次の時代へ渡っていく

のかもしれません。

一冊の本が、机の上に置かれている。

 

巻物ではない。何枚もの紙を重ね、綴じた

本だ。

 

書いた人の筆跡ではない。

 

もっと後の時代に、別の人が写した文字だ。

 

 
ご精読ありがとうございました。
 
懐中温泉