懐中温泉です、
蒸気機関物語―それぞれの幸福―19
結は、売店で買った独楽を机の上に置いた
まま、朝を迎えました。
窓の外は晴れていました。
前の日まで山にかかっていた雲は消え、
遠くの稜線が青く見えます。
宿の庭では、植木の葉が風に揺れて
いました。
けれど、湯けむりだけは風と別の動きを
していました。
下から上へ。
細く立ちのぼり、途中でほどけ、空気に
消えていく。
結は独楽を指で回しました。
最初はぐらついた。
机の木目を小さく震わせながら、倒れそう
になり、それでも少しずつ姿勢を
正していく。
やがて独楽は、まるで止まっているように
見えるほど静かに回り始めました。
「回っているのに、静か」
結はつぶやきました。
昨日、書いたアイオロスの球も、こんな
ふうだったのかもしれません。
中空の球。
その左右から突き出した、二本の曲がった管。
下では水が火にかけられている。
水は熱を受け、蒸気になる。
蒸気は管を通り、球のなかへ入る。
そして、曲がった口から外へ噴き出す。
蒸気が右へ逃げれば、球は左へ
回ろうとする。
反対側でも同じことが起きる。
逃げる蒸気と、逃げまいとする球。
そのせめぎ合いが、回転になる。
結は、ノートに小さな矢印を描きました。
二つの噴出口から、反対向きへ伸びる
矢印。
そして球の周りには、円を描く矢印。
出ていく力が、回る力になる。
この短い文を書いてから、結は少し
困りました。
「力」という言葉は便利です。
けれど便利すぎて、何も説明していない
ようにも思えます。
湯気に力がある。
空気に力がある。
水にも、火にも、重さにも力がある。
それでは、いったい何が球を回したのか。
結は独楽を止めました。
いま、独楽が回っているのは、自分が
指でひねったからです。
手を離したあとも回るのは、最初に与えた
勢いが残っているからでしょう。
けれどアイオロスの球には、指が触れて
いない。
火が水を熱し、水が蒸気になり、蒸気が
外へ出る。
その出ていく方向とは反対に、球が回る。
「逃げるものには、押し返す力がある」
結は、そう書いてみました。
少し言い過ぎかもしれません。
けれど、温泉の湯気を見ていると、逃げる
という言葉が似合う気がしました。
湯けむりは、屋根の下にとどまろうと
しない。
窓を開ければ外へ出る。
風が吹けば運ばれる。
冷たい空気に会えば、水の粒となって
消える。
人は蒸気を、閉じ込めて使おうとした。
けれどアイオロスの球では、蒸気は
閉じ込められたままでは働かない。
外へ出る。
勢いよく逃げる。
その逃げる蒸気が、球を回す。
結には、それがどこか面白く思えました。
後の蒸気機関では、人は蒸気を
シリンダーに入れ、弁で調整し、
冷やし、凝縮させ、梁を上下させた。
蒸気は、重い仕事をするために、
鉄の部屋のなかで管理される。
しかしアイオロスの球では、蒸気は
小さな穴から噴き出し、空へ消える。
それは、機械というよりも、湯けむり
の近くにある装置でした。
役に立つかどうかを、まだ急いで
問わない装置。
火があり、水があり、球が回る。
見ている人が、「なぜだろう」と思う。
結は、それだけでも十分に大きな
出来事だったのではないかと思いました。
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
