懐中温泉です、
歴史シミュレーションその42
信長は、公家にとって、 「恐ろしく強いが、
交渉次第では恩も与える男」である。
朝廷に金を出し、 儀式を支え、
ときに古い家々を取り込み、
ときに圧倒的な武で従わせる。
「織田は、
朝廷にとって“今を生き延びるため
の柱”かもしれぬ」
ある公家はそう言う。
「だが、その柱は、いつか朝廷の手を
握り潰すやもしれぬほど太い」
信長の天下は、公家にとって利便でも
あり、恐怖でもあった。
公家の目に映る謙信
一方で、謙信は信長とは違う恐れを
与える。
「上杉は、 京に長くいるわけではない。
だが、その代わり、 『足利の名』を掲げる」
ある高位の公家が、静かに言う。
「これは、朝廷が“武家の正統”を選び
直す可能性を示す。
織田の天下布武は、 古い武家秩序を壊す。
上杉の義は、
古い武家秩序を蘇らせようとする。
どちらが正しいかではなく、
どちらが“都にとって都合がよいか”を、
朝廷は見ておるのだ」
書状に挟まれる天秤
この頃、京の座敷に入る書状は、
三つの方向から届いていた。
織田からは、
「都の安全、朝廷の安泰」を約する文。
上杉からは、
「足利将軍家を尊び、仏法・正法を
回復する」文。
毛利からは、
「中国・瀬戸内の安定を保ち、京を
乱さぬ」文。
そして、本願寺からは、
「信仰の場を守る」訴えが静かに続く。
公家たちは、その文を一枚ずつ見比べる。
「信長の文は、
最も直接的で、最も現実的だ。
だが、 その力が大きすぎる」
「上杉の文は、言葉が古い。
しかし、その古さが、
朝廷には懐かしく映る」
「毛利の文は、戦場の話でありながら、
都への圧迫を最小限にする配慮がある」
「本願寺は…… 信仰の灯を消すな、というだけで、
天下の形をかなり揺らしておる」
京の天秤は、誰にも傾ききらない
公家たちは、 決して単純に「
織田か上杉か」を選んだわけではない。
選べないからこそ、 両方の文を読み、
両方の使者に礼をし、 両方の可能性を残す。
それが、 この時代の京の生き方であった。
「信長は、
天下を一つにしようとしておる。
謙信は、
天下を二つに分けて、
その片方を“義”で整えようとしておる。
朝廷は、そのどちらにも
完全には乗れぬし、 完全には抗えぬ」
そう呟く公家の横顔には、 不安と、
少しの好奇心が混ざっていた。
第二十四話 白浜に戻る影
白浜の海は、やはり静かだった。
京では、信長と謙信と毛利と本願寺の
名が、公家の座敷で何度も天秤に
かけられている。
けれど、ここ白浜では、波の音が
寄せては返すだけである。
結は、温泉宿の縁側に腰を下ろし、
膝の上にノートを開いていました。
「天下二分、か……」
声に出してみると、 その言葉は海風に
少し薄められて、 どこか遠いもののように
聞こえました。
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
