懐中温泉です、
結が白浜のことを調べ始めると、まもなく
「白浜」そのものより前に、「紀国(紀伊国)」
という呼び名が気になり始めました。
白浜は、その「紀国」という枠組みの中で
どう位置づけられてきたのか
そこを押さえないと、湯治の意味も十分には
見えてこない、と感じたからです。
「紀国」はもともと「木の国」
資料をあたるうちに、結はいちばん最初に、
「紀伊」という国名そのものの由来に突き当たり
ました。
7世紀頃、この地域はもともと「木国(きのくに)」
と呼ばれていたとされます。
『日本書紀』では「木国」と書いて「きのくに」
と読ませており、これは雨が多く、森林が
鬱蒼と生い茂る土地柄から、「木の国」と
名づけられたのだという説が紹介されています。
和銅6年(713年)に、国名を二字の好字で
表記するよう定める中央の官令が出た際、
「木国」は「紀伊国」と漢字表記を改められ
ました。
結はノートにこう書きつけます。
「“紀国”=“木の国”。山と森の国としての紀伊。
その海辺に、白浜の湯が湧いている。」
「紀国」という言葉は、一見すると海辺の白浜
とは遠いようでいて、実は背後に広がる
山地と森のイメージを強く抱え込んでいる、
ということに気づきます。
天皇の行幸と「牟婁の湯」─紀国の政治的・
宗教的な重み
さらに結は、紀伊国が古代から特別視
されてきた理由にも目を向けました。
奈良時代、「畿外への天皇の行幸」はごく少数
しか行われておらず、そのうち約半数が
紀伊国に集中していた、という指摘があります。
『日本書紀』には、斉明天皇らが紀伊国の
「牟婁の湯(むろのゆ)」に行幸した記事があり、
これは現在の白浜温泉に比定されます。
同じく紀伊国内には熊野三山、高野山など、
国家的な宗教拠点が集中しており、
「山・森・海・湯」がセットになった「特別な周縁」
として、都から繰り返し訪れられてきました。
結はここに、「紀国」の歴史的意義の一端を見ます。
「紀国」は、単なる辺境ではなく、
都から見て「行幸に値する癒やしと祈りの場」が
集中する土地。
山の聖地(熊野・高野)と、海辺の湯(牟婁・白浜)
を一体として抱える「木の国」。
だからこそ、白浜で湯治をするという行為は、
「たまたま良い温泉に行く」こと以上に、「古くから
“癒やしと祈り”の行き先とされてきた紀国の
一角に身を置くこと」になるのだと理解できる。
近世〜近代の紀国:紀州藩と「紀の国」イメージ
結はついでに、近世以降の紀伊国=紀州の
位置づけも確認します。
関ヶ原以後、浅野氏を経て、元和5年(1619年)
に徳川家康の第10子・頼宣が若山城(和歌山城)
に入り、「紀州藩」が成立します。
紀州藩は尾張・水戸と並ぶ徳川御三家として、
政治的な重みを持ちました。
その一方で、この地域は近世を通じて「紀の国」
「木の国」として、林業・海運・熊野詣・温泉など、
多様な資源と信仰・観光の拠点を提供する
土地としてイメージされていきます。
結にとって重要なのは、「紀国」が権力の周縁で
ありながら、政治(御三家)、信仰(熊野・高野)、
療養・観光(牟婁・白浜)を一身に引き受けて
きた場所だ、という点でした。
「紀国で湯に入ることは、政治の中心でも
辺境でもない、“周縁の厚み”に触れること
かもしれない。」
彼女はそんなメモを、白浜湯治ノートの余白に
書き込みます。
結が見ている「紀国」と白浜
こうして沿革と歴史的意義を追ってみると、
結の頭の中では、白浜は次のような文脈に
置かれ始めます。
有馬:山中の湯であり、近世都市・近代温泉
医学との結節点。
道後:城下町・町なかの古湯として、日常と
連続する湯治の場。
白浜(牟婁):紀国という「木の国」の海辺に
湧く塩の湯として、古代行幸・熊野信仰と
つながる「海の湯治」の場。
なぜ「紀国」なのか——それは、単に地名の
問題ではなく、
「木の国」としての山と森、
熊野・高野という聖地、
天皇がわざわざ足を運んだ牟婁の湯、
御三家・紀州藩という政治的な重み、
そのすべてを背景に持つ土地だからだ、
と結は理解していきます。
白浜で一週間の湯治をするとき、結はきっと、
「海辺の湯」に浸かりながら、その背後にある
「木の国」としての紀国の影を、何度も意識
することになるだろう
彼女のノートには、そんな予感めいた一行が、
静かに書き添えられていました。
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
