懐中温泉です、
道後湯治第六日目前半
六日目の朝、結は、いつもより少し遅く
目を覚ましたことに気づきました。
といっても、目覚ましが鳴る前であることに
変わりはありません。
ただ、布団の中で「もう少しこのままで
いてもいい」と思えるだけの、ゆるい余裕が
身体のどこかに生まれていました。
足先から順に状態を確かめると、脚は静かで、
ふくらはぎも腰も、五日目までと同じく
何も訴えてきません。
顔を枕からわずかに上げるときの首や
肩の動きも、軽く滑らかでした。
「きょうと明日で、一回りの“出口”に向かって
いくんだな。」
そんな言葉が自然と浮かんできます。
七日間のうち六日目は、すでに大きな変化は
出にくく、むしろ「これまでの変化が本物かどうか」
を確かめる時間になるだろうと、
結は感じていました。
襖を開けると、佐和はすでに起きて、広縁で
ストレッチをしていました。
「おはよう。」
「おはよう。きょうはどうする? 朝湯、行く?」
「きょうは入ろうかな。」
結は少し考えたあと、そう答えました。
「湯なしの朝も確認できたし、出口に向かう前に、
もう一度“朝湯がある日の身体”も
見ておきたい。」
「じゃあ、一緒に行こう。」
二人は洗面を済ませ、内湯へ向かいました。
朝:一巡りしての「朝湯」の意味
三日目、四日目のころの内湯は、「湯に慣れる
ための湯」でした。
六日目の内湯は、もう少し違う意味を帯びて
いました。
浴槽に入ると、透明な湯がいつものように
肌の一枚内側にぬるい膜を作ります。
その感覚はもはや驚きではなく、「ここにいる」
という確認に近くなっていました。
「朝湯に入ると、やっぱり“一日が始まる”感じ
が強いね。」
肩まで浸かりながら結が言うと、佐和が頷き
ました。
「うん。湯なしでも身体は動くけど、湯ありだと、
“一段階深く呼吸できる”気がする。」
二人はしばらく黙って湯に身を任せました。
結は、湯の中で自分の腕を撫でてみました。
指先に触れる皮膚は、もう「変わりつつある肌」
ではなく、「この一週間の標準状態の肌」に
なっているように感じられます。
「初日から三日目くらいまでは、“変わっていく
途中の身体”を意識していたけど、いまは
“変わったあとに安定している身体”を、
どう家に持ち帰るかが気になってる。」
そう言うと、佐和は湯の向こうで笑いました。
「出口戦略の話ね。」
「そう。湯治から日常に戻すときの、“落差の
少ない降り方”を考えないといけない。」
内湯を出て、脱衣所の鏡の前に立つと、結は
自分の顔をちらりと確認しました。
頬の赤みは、ここ数日と同じく淡い桃色で、
目の下の陰りも、ほとんど「気にしなければ
見えない」程度にまで薄くなっていました。
「六日目で、これなら上出来かな。」
心の中でそう呟きながら、結は髪をまとめました。
午前:荷物とノートと「出口」の準備
朝食は、きのうまでとほぼ同じ量を維持し、
ご飯半分強、魚小さめ一切れ、豆腐と野菜の
味噌汁、野菜の小鉢という構成でした。
「あと二回寝たら帰る、という感覚が、
ようやく身体にも伝わってきた気がする。」
味噌汁をすすりながら結が言うと、佐和は
「私も同じ」と頷きます。
「七日目が“締め”だとしたら、六日目は、“
まとめの準備”の日だよね。」
「うん。ノートの整理と、持ち帰るものの確認と。」
午前中、結は荷物を少しずつまとめ始めました。
といっても、まだ完全に詰めるわけではなく、
「これとこれは道後に置いていきたいもの」
「これは次に来るときのためのメモ」
というような形で、頭の中と持ち物の整理を
始めるのです。
湯治ノートも同じでした。
結は三日目までのページと、四、五日目の
まとめの部分を読み返し、余白に小さく矢印や
メモを付け加えていきました。
「“湯に入らない朝”でも状態が維持できた
のは四日目と五日目。
→道後再訪のときも、“連日フルで湯に入らなくて
よい”という目安。」
「足湯だけでも、“湯の線”が戻ると感じたのは
五日目。
→短期滞在のときは、足湯+一湯でも十分に
意味がある。」
そんなメモを書きながら、結は、自分の中で
「道後をどう使っていくか」の地図が少しずつ
形になっていくのを感じていました。
佐和も反対側で、自分のノートを見返していました。
キーボードを叩く音は今日は控えめで、ペンの
走る音のほうが多く聞こえてきます。
「結は、この七日間のなかで“一番書いておきたい
こと”って、何?」
ふと佐和が尋ねました。
結はペンを止めて考えます。
「そうだな……“道後では、湯治が生活の延長線上
にある”ってことかな。」
「有馬は?」
「有馬は、“生活から切り離された湯治”。
道後は、“生活の中に戻って行ける湯治”。」
自分で言いながら、その言葉が少しだけ
胸の奥に落ちていくのを感じました。
昼:あえて「湯なし」の時間を長めにとる
