懐中温泉です、
道後湯治第一日目前半
道後温泉駅前で佐和と落ち合い、宿の玄関
をくぐったところから、結の「道後一回り湯治」
第一日目が始まります。
部屋に案内されると、六畳と小さな広縁だけの
簡素な造りでした。
有馬のときの、山の宿のやや古びた木の匂い
とは違い、ここには、ごく薄い畳の青さと、
どこかに残る洗剤の香りが混じっている
ように感じられます。
窓の外には、道後温泉本館の屋根の一部が
斜めに見え、その向こうに、ホテルの白い壁が
顔を出しています。
荷物を置き、座布団に腰を下ろすと、結は
ようやく「初日」という言葉を、身体の内側で
受け止められたような気がしました。
「まずは、今日は軽く二回にしておきましょうか。」
畳に座った佐和が、ストールを外しながら
言います。
「はい。初日は“身体に道後を紹介する日”
という感じでいきたいですね。」
結も笑って頷きます。
有馬での三回りを終えてから、すでにいくらか
時間がたっていましたが、脚の奥には、
あの金泉・銀泉のぬくもりの記憶が、
まだ細く残っているように思えます。
有馬で整えた「平常」が、東京に戻ってから
の仕事と日常のなかで微妙に揺らいでいる。
その揺れを、今度は道後の湯でどう受け止め
直すのか
その小さな実験が、この七日間のテーマ
なのだと、結は自分に言い聞かせていました。
まず昼は軽く、宿の内湯から入ることに
します。
廊下の突き当たりの引き戸を開けると、
小さな脱衣所と、その奥に、二人も入れば
いっぱいになりそうな浴槽がありました。
タイル張りの床に、浅く透明な湯が満ちて
います。
湯面から立ち上る匂いは、ほとんど何も
訴えてこないように感じられます。
有馬の金泉は、最初から強い鉄と塩の
匂いで身体を包んできました。
それに対して、道後のこの湯は、「水と湯の
境目」がはっきりしないまま、静かにそこに
あるだけのようでした。
「……透明ですね。」
湯に手を差し入れながら、結が呟きます。
佐和も同じように指先を沈め、「単純泉寄り
だから、匂いはあまりしないですね」と
答えます。
「でも、アルカリが少しあるので、“美人の湯”
って言われるタイプですよ。」
そう言って笑いながら、佐和はさっさと湯に
肩まで浸かります。
結もゆっくりと膝を折り、腰を沈めました。
湯は、触れた瞬間は水のように軽いのに、
しばらくじっとしていると、皮膚の表面ではなく、
薄い膜の一枚内側に、ぬるい何かが
まとわりつくような感覚があります。
「有馬みたいに、“ここに効いてます”って
いう主張がないですね。」
結は、湯の中で手を開いたり握ったりしながら
言います。
「そうですね。ここの湯は、“じわじわ”タイプ
ですね。」
佐和が、浴槽の縁に頭を預けるようにして
答えます。
「だから、七日くらい続けて入ってみないと、
変化がわかりにくいかもしれませんね。」
結は、自分のすねとふくらはぎを、湯の中で
そっと撫でてみます。
指先に触れる皮膚は、家の風呂で感じる
ときよりも、少しだけ「柔らかく滑る」気が
します。
タオルでこすってはいないのに、角質がふや
けているのか、それとも湯そのものの性質
なのか、自分でも判断がつきません。
「肌の感じも、少し違うかもしれません。」
結がそう言うと、佐和は「初日から“美人の
湯”の効果が出てきたみたいですね」
と冗談めかして笑います。
昼の湯は、十五分ほどで切り上げることに
しました。
上がって鏡の前に立つと、自分の頬の赤みが、
有馬のときの「湯上がりの赤」とは別の色
をしていることに気づきます。
金泉のあとに出る、あのくっきりとした朱色
ではなく、少し薄めの桃色が、頬の内側
からにじんでいるようでした。
「血が、表面まで届くのに、少し時間が
かかっている感じがしますね。」
自分でも不思議な言葉だと思いながら、
結は鏡に向かって小さく首をかしげます。
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
