懐中温泉です、
「宿は、この通りを抜けて、道後温泉本館の
裏手のほうですよね。」
佐和が地図アプリをちらりと確認して言い
ました。
「ええ。七日間、できるだけ同じ動線で
動けるところがいいかな、と思って。」
二人はアーケードの中へ足を踏み入れ
ました。
乾いた瓦せんべいの匂いと、揚げ物の
油の匂い、コーヒーと柑橘の甘い香りが、
入り混じって流れてきます。
有馬の山椒や炭酸せんべいとはまた違う、
「海に近い城下町」の匂いでした。
土産物屋のガラス越しに、「坊っちゃん
団子」や「みかんジュース」のポップが
並びます。
その横に小さく「湯治にもどうぞ」と
書かれた温泉豆腐のパックが置かれて
いるのが目に入りました。
観光と日常と湯治とが、ここではあまり
線を引かれずに同じ棚に並んでいる
ようでした。
アーケードを抜けると、視界がぱっと開け、
道後温泉本館の建物が正面に
現れました。
複雑に屋根が重なった木造三階建ての
姿は、写真や資料で何度も見てきたはず
なのに、実際に目の前に立つと、その質量
と光の受け方がまったく違って見えます。
観光客がひっきりなしに出入りし、
カメラを向けていますが、その背後に、
百年以上湯気を吸い続けてきた
木と瓦の重さが静かに立っていました。
「有馬の金泉の源泉街とは、別の意味
で“圧”がありますね。」
結はそう言って、ひと呼吸おきました。
有馬では、湯の色と匂いがまず先に
来て、その背後に歴史が見えてくる
感じだった。
道後では、建物と物語のほうが先に
立っていて、その奥に「透明な湯」が
控えている。
宿は、本館から少し裏手に入った細い
坂の途中にありました。
木の格子戸と小さな看板が出ている
だけの、静かな建物です。
大通りから少し離れると、さっきまでの
ざわめきが嘘のように遠のき、風の音と、
どこかから微かに聞こえる湯の流れる
音だけが残りました。
「ここなら、観光の波から半歩外れられ
そうですね。」
佐和がそう言い、結はうなずきました。
玄関をくぐり、靴を脱いで板の間に足を
置いた瞬間、結はようやく、「これから
七日間の湯治が始まる」と、身体の奥で
実感が一段階深まるのを感じました。
駅前のからくり時計や、ハイカラ通りの
ざわめきは、そのための「助走」に
すぎなかったのだと、今になって
思えました。
帳場で名前を書きながら、結は心の中で
静かに一句のようなものをつぶやきました。
「山の湯の三回りのあと、町の湯で一回り。」
有馬で厚くした「平常」が、この七日間で
道後の湯と町の空気にどう揺らされるのか
その小さな実験が、いま始まろうとして
いました。
