懐中温泉です、
有馬から戻って数日、結は自宅の机に
ノートを広げたまま、道後温泉の名前を
何度も書いては、少しずつ線を足して
いきました。
ページの上には、大きな字で「次の湯治候補」
と書かれ、その下に「有馬」「道後」「別府」
「秋保」といくつかの地名が並んでいます。
その中で、「道後」の文字だけが、何度も
なぞられて、少し濃くなっていました。
「どうして、こんなに道後が気になるんだろう。」
結はペン先を止めて、自分に問いかけました。
まず思い浮かんだのは、道後の「古さ」でした。
学生のころに読んだ資料の端々に、
「伊予温湯」という名で何度も現れていた場所。
古い記録のなかで、天皇や貴人が行幸する
場として描かれてきた温泉。
「有馬も十分古いけれど、道後はもっと前から、
文章の中に存在していた。」
そう思うと、三週間の有馬のあとに道後へ
向かうことは、「近世〜近代の湯治」から、
「古代までさかのぼる温泉史」への自然な
延長のように感じられました。
ノートの一角に、結は小さく欄を作りました。
「なぜ道後か」
その見出しの下に、箇条書きをはじめます。
「一、古代から続く温泉としての重なり
・伊予温湯=古い史料に繰り返し現れる。
・有馬が“近世〜近代”の湯治のモデル
だとすれば、道後は“古代〜中世〜近世”を
またいだモデルとして扱える。
二、自分の地理的な近さ
・自分の生活圏から見て、“戻れる範囲”
にある古代温泉。
・完全な旅先というより、“帰郷と湯治の中間”
になりうる土地。
三、有馬との対比が描きやすい
・有馬=山の湯、金泉・銀泉、谷に沿う坂道
の湯治場。
・道後=城下町・港町と結びついた湯、
平地に開けた温泉街。
→同じ三週間を過ごしても、身体・心・町の
受け止め方がどう変わるかを比べられる。」
ここまで書いたところで、結はペンを指で
くるくる回しながら、ふと笑いました。
「結局、自分は“比較の人”なんだな。」
有馬にいるあいだも、常に
「昔と今」
「有馬と他温泉」
「湯治と医療」
「湯治と観光」
を行き来して考えていた。
今度は、「有馬と道後」を並べてみたい
という欲求が、自然と頭をもたげてきている。
机の端には、有馬滞在中に読み返して
いた温泉関係の本が積まれていました。
その中に、古代の伊予温湯の記述を
まとめた論考や、近代以降の道後の
変化を扱った章が挟まれています。
結は一冊を手にとって、付箋を貼った
ページを開きました。
「——伊予温湯は、古くから“癒しと祈り”
の場であり、時代ごとにその意味を変え
つつも、途切れることなく人びとの身体と
信仰を受け止めてきた。」
そんな文言の横に、以前の自分が書いた
鉛筆のメモが残っていました。
「いつか、ここで“身体の研究”をしたい。」
結は、その一行をしばらく見つめました。
「“いつか”が、そろそろ“次”になってもいい
頃かもしれない。」
そう思い、ノートに新しい欄を作ります。
「道後湯治の構想(下書き)」
その下に、思いつくままに書き込んで
いきました。
「・滞在期間:まずは一回り(七日)を基本に。
体調と研究の進み具合を見て、二回り目
へ延長もあり。
・テーマ①:古代記録(伊予温湯)の文言と、
現代の湯・町・身体感覚を重ねる。
・テーマ②:有馬との違いを、“湯の質”
“町の構造”“観光化の度合い”“文学・記録
の残り方”という軸で観察。
・テーマ③:“帰郷と湯治”の重なり方
完全な旅先ではなく、自分の生活圏に近い
温泉で、身体と心がどう振る舞うか。」
