懐中温泉です、
有馬湯治第十二日前半
十二日目の朝、結は、目覚めたときの身体の
感触が、十一日目のそれとほとんど変わらない
ことに気づきました。
脚先の温かさも、ふくらはぎの重さも、ここ数日で
「これなら続けられる」と感じている範囲に収まって
います。
朝の金泉は、あつ湯の足湯と、ぬる湯に肩まで
一度だけという型を崩さず、湯から上がりました。
朝食は米半分強に豆腐多めの味噌汁、
漬物少量という、いつもの「下限ライン」の朝食を
淡々と口に運びました。
午前中は部屋で静かに過ごし、『有馬の日記』
の翻刻を少しだけ読み返しました。
本居大平が、「飯一椀」「湯二度」といった記録
の傍らに、「酒一合」とだけ書き添えている頁に、
ふと目が留まります。
十一日目の夜、自分もまた少量の酒を口に
したことを思い出し、「湯治のなかに、こういう
小さな“余白”があってもよいのかもしれない」と、
結はノートの端に小さくメモを書き足しました。
昼前、結は、銀泉で腰までの半身浴を一度
だけ行い、湯から上がると、久しぶりに町へ
出てみることにしました。
細い坂道を下り、土産物屋の並ぶ通りを
ゆっくりと歩きます。
せんべいの焼ける匂い、炭酸煎餅の缶が
並ぶ棚、湯けむりの混じった空気
その中に、ときどき、かすかな酒の香りが
混じるのを、十一日目よりもはっきりと
嗅ぎ分けられるような気がしました。
少し奥へ入った角に、小さな酒屋がありました。
木の引き戸の外に、黒板の札がひとつ
出ていて、「灘の酒、すこし味見できます」と、
白いチョークで書かれています。
大きなイベントのような賑やかさはなく、
戸の隙間から見える店内も、静かな薄明かり
に満ちていました。
結は足を止め、「昼間に酒、といっても、
湯治の邪魔になるほどではないはず」と
心の中で言い訳をしながら、そっと戸を
開けました。
中は、古い木棚に一升瓶が並ぶ、小さな店
でした。
奥の一角に、樽の板を切って作ったような
高めの台があり、その上に、小さなテイス
ティング用のグラスが三つ、列を作って
並んでいます。
グラスの前には、「辛口」「旨口」「生一本」と
だけ書かれた札が立ててあり、その奥で、
年配の店主が静かに瓶を拭いていました。
「少し、見せていただいてもいいですか」と
結が声をかけると、店主は顔を上げ、
「どうぞ。湯上がりですか」と穏やかに
笑いました。
「はい。昼に銀泉に」と答えると、
「では、軽く三口ほど。きのうの夜も、
このあたりの宿で少し出してもろうてます」
と言いながら、店主は三本の瓶を台の上に
持ってきました。
最初のグラスには、「辛口」と札のある瓶
から、ごく少量の酒が注がれました。
結がグラスを持ち上げると、十一日目の
薄暗い小部屋での一杯目が、そのまま
手の中に戻ってきたような気がします。
口に含むと、最初の印象はやはり水のように
なめらかで、飲み込む瞬間、舌の付け根が
きゅっと締めつけられました。
その細い線が喉を通り抜けるとき、胸の奥に
灯る小さな火——昨夜感じた「灯」が、今度は
昼の光の中で、もう少し輪郭を持って
浮かび上がります。
二つ目のグラスには、「旨口」と書かれた
札の前の瓶から酒が注がれました。
鼻を近づけると、辛口よりもやわらかい
香りがふわりと立ち上がり、口に含むと、
米の甘さが、舌の両側から真ん中へと
ゆっくり寄ってくるように広がります。
十一日目の二杯目で感じた、胸の真ん中に
たまるぬるい湯溜まりのような温度が、
ここではもう少しはっきりと、「甘さの残る
余韻」として意識されました。
三つ目のグラスには、「生一本」と札の
立った瓶から注がれました。
香りは控えめですが、口に含むと、舌の上に
米粒の輪郭がそのまま溶けたような骨格が
あり、飲み込んだあと、喉から胸へと一本の
太い線が通っていくのを感じます。
昨夜の薄暗い小部屋では、その線はただ
「素朴な厚み」として通り過ぎていきました。
が、昼の酒屋では、「灘の生一本」という
名前と、店主の手つきのおかげで、その線に
「産地」と「水」の重さが上乗せされていくよう
でした。
「きのうの夜も、似たような三つを少しずつ
いただきました」と結が言うと、店主は「ああ、
有馬のあそこの宿ですか」と、店名をそっと
口にしました。
「あちらには、うちからも何本か出してましてね。
湯のあとに少しだけ飲んでもろうのが、
一番ええんですわ。
よう効いた湯の上に、酒を重ねすぎると、
どちらももったいないさかい」と、店主は
静かに付け加えました。
