懐中温泉です、
有馬湯治第九日前半
九日目の朝、結(ゆい)は、少しだけ遅めに
目を覚ましました。
窓の外からは、すでに坂を行き交う車の音や、
人の話し声が聞こえてきます。
脚先は相変わらず温かく、ふくらはぎの重さも、
ごく軽い「昨日もよく歩いたな」という程度です。
腰や背中にもこわばりはなく、肩も軽い。
ただ、布団から起き上がったとき、ほんの
一瞬だけ「身体の芯が細くなったのでは」
という感覚がよぎりました。
ちゃぶ台のノートを開き、「有馬湯治 二巡目
九日目」と書き入れます。
その下に、「金泉二回(朝・夕)を上限。
銀泉は午後に半身浴一度。食事は“少食を
維持しつつ、タンパク質を少し増やす方向を
検討”」とメモしました。
ここ数日、自分でも食事量がかなりコンパクトに
なっている実感があり、「そろそろ“効く量”と“
痩せすぎない量”のバランスも考えたほうがいい」
と感じ始めていたところでした。
朝食は、これまでと同じく、米を茶碗に半分強、
味噌汁には豆腐と大根、少しの青菜。
有馬山椒をひと振りだけ。漬物は二切れ。
箸を進めながら、結は「この量なら湯治と
しては十分だが、三週間で見たときに少し
筋肉を削っているかもしれない」と、
頭の片隅で考えていました。
食後、布団の上でひと休みしてから、金の湯に
向かいます。
あつ湯で短い足湯をし、ぬる湯に肩まで短く
浸かるという型は、すっかり身体に入っています。
九日目の朝も、「十まで数えて二呼吸だけ肩まで」
というルールを守り、湯から上がりました。
湯上がりの感覚は悪くありません。
脚も軽く、頭も冴えています。
宿に戻り、少し休んでから、結はふと思い立って、
家にいる友人に電話をかけました。
伊香保からの帰宅後にも何度か近況を伝えて
いた相手です。
「いま、有馬で二巡目に入ったところなの」と
話し始めると、相手は興味深そうに耳を傾けて
くれましたが、食事の話になったあたりで、
声のトーンが少し変わりました。
「ちょっと待って。それ、一日どのくらい食べてるの?」
結が、朝は米半分と味噌汁、昼も控えめの定食、
夜は小さなおにぎり一つと味噌汁——とさらりと説明
すると、電話口の向こうで短い沈黙がありました。
「……それ、伊香保のときよりさらに減ってない?
大丈夫なの? そんなに少ないと、さすがに
痩せ細っちゃうんじゃない?」
友人の心配はもっともでした。
伊香保のときも少食でしたが、有馬の二巡目に
入ってから、結は知らず知らずのうちに、さらに
一段階食事量を絞っていたのです。
湯の濃さに合わせて「少食モード」が自然に進んで
いたとはいえ、第三者の耳には、かなりストイックな
生活に聞こえたのでしょう。
結は、少し考えてから、できるだけ合理的に説明
しようとしました。
「たしかに量だけ聞くと少ないんだけれど、伊香保で
二十一日やったときに、“湯の効き方”と“胃腸の負担”
を考えると、だいたいこのくらいがいちばん調子が
よかったのね。
今回も、それを有馬に持ち込んでいる感じ。
それに、炭水化物を極端に減らしているわけでは
なくて、米は毎食少しずつ食べているし、味噌汁の
具も豆腐や野菜である程度はカバーしてるから。」
そう言いながらも、結の心のどこかで、
「タンパク質の量」という言葉が静かに引っかかって
いました。
「でもさ」と、友人は続けました。
「伊香保から帰ってきたときも、けっこう締まってた
じゃない? そのあとまた少し戻して、今また三週間って
なると、さすがに筋肉のこととか、年齢のこととかも
考えたほうがいいんじゃないかな。
湯治はいいとしても、長い目で見て“減らしすぎ”に
なってないか心配なんだよ。」
この言葉には、結も完全には反論できません
でした。
伊香保のあと、自宅で少し体重を戻してから
有馬に来ているとはいえ、今の食事量を長期に
続ければ、確かに筋肉量は落ちてしまうかも
しれません。
「……そうだね」と結は静かに答えました。
「湯治中だからこそ、“減らす方向”に偏りすぎて
いるところはあるかも。
今日から、意識的にタンパク質を少し増やしてみる。
といっても、いきなり量を倍にするんじゃなくて、
豆腐や魚を一口ぶん足すくらいからだけど。」
友人は少し安心したようで、「うん、それならいいかも」
と笑いました。
電話を切ったあと、結はしばらくノートを見つめて
いました。
「減らす勇気」と同じくらい、「必要なものを足す勇気」も
また、湯治の一部かもしれない——そんな考えが、
少しずつ形をとり始めていました。
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
