看板の背後で | 「中年の危機」に陥った、ごく普通の50代男性が、3日・2週間・1ヶ月の3段階で人生をやり直す、潜在意識活用システム 真「幸せの時間」

「中年の危機」に陥った、ごく普通の50代男性が、3日・2週間・1ヶ月の3段階で人生をやり直す、潜在意識活用システム 真「幸せの時間」

潜在意識の働きで、あなたは「スーパーなあなた」になるのです。そのための素材・方法も実はあなたの手元にすでに多くあります。ここでは、あなたがそれを見出し、活用するお手伝いをいたします。胎児(あなた)は、胎児(あなた)の夢により進化します。

懐中温泉です、

 

「癒しと労働の列島」篇第八十話

 

 

別府を歩いていると、何度か同じ名前に出会い

ます。

 


油屋熊八。

 


像になり、説明板になり、語りの中心に置かれている

人物です。

 

結は、その存在を否定する気にはなれませんでした。

 


確かに彼は、新しい発想を持ち、別府を外へ向けて

開いた。

 


観光という言葉がまだ定まらない時代に、人を呼び、

道をつくり、物語を整えた。

 

それでも、像の前に立ったとき、結の中に浮かんだのは、

少し別の問いでした。

 

この人は、どうして、これほど自由に動けたのだろう。

 

好きなことを言い、思いついたことを形にし、外へ

向かって町を語る。

 


その軽やかさは、どこから来たのか。

 

結は、これまで見てきた宿の内部を思い出します。

 


湯を回す手。
食を整える手。

 


時間を途切れさせない手。

 


前に出ない、けれど止められない手。

 

熊八が前に立てたのは、後ろがすでに回っていたから

ではないか。

 


そう思えてならなかったのです。

 

英雄は、真空の中では生まれません。

 


何もない場所に、突然立ち上がるわけではない。

 


むしろ、すでに整っている場の上に、一人、前へ

出ることができた人です。

 

別府には、すでに湯がありました。

 


すでに宿がありました。

 


すでに、働く人びとがいました。

 

その多くを担っていたのは、名前を残さない

女性たちです。

 

彼女たちは、観光を語らず、理念を掲げず、
像にもならない。

 

けれど、湯が止まらないようにし、宿が回るようにし、


町が自己完結する時間を支えてきた。

 

結は、熊八の像を見上げながら、その背後に、

見えない広がりを感じました。

 


一人の人物を持ち上げるために、切り落とされて

きた無数の手。

 

それは、批判ではありません。


英雄が悪いわけでもない。


ただ、英雄が成立する条件を、もう少し正確に見たい

のです。

 

熊八は、外へ語る人でした。

 


別府を説明し、魅力として言葉にし、看板になる

ことを引き受けた。

 

けれど、別府という町は、本来、説明を必要と

しない構造を持っていた。

 


生活として回り、湯として続き、内側で完結していた。

 

だからこそ、外へ向かって語る役が、一人、前に出る

余地があった。

 

結は、ここで腑に落ちます。

 


熊八は、別府を変えた人ではない。

 


別府がすでに持っていたものを、外向きの言葉に

翻訳した人なのだと。

 

翻訳者は、目立ちます。


原文を書いた人は、名を残しません。

 

宿の奥で、湯を見て、布を洗い、火を守ってきた

人びとは、翻訳される側でした。

 

彼女たちが、それを望まなかったのか、望めな

かったのか、結には分かりません。

 

ただ一つ言えるのは、彼女たちがいなければ、


熊八は好きなことを、あれほど自由にはできな

かった、ということです。

 

結は、看板を見ながら、看板にならなかった

時間の厚みを思います。

 


前に出ない労働。
語られない継続。

 

別府は、英雄によって支えられた町ではない。


英雄を、前に立たせることができた町だった。

 

その違いは、決定的です。

 

結は、ノートに一行だけ書きました。


――看板は、一人で立っているように見える。

 

けれどその裏には、決して表に出ない支えが、


幾層にも重なっている。

 

それを書かずに、別府を書くことはできない。

 


けれど、それを暴露として書くことも、また違う気

がしていました。

 

どう書くか。ではなく、どこまで黙るか。

 

結は、別府という町が教えてくれたもう一つの問いを、


静かに受け取っていました。

 

 
ご精読ありがとうございました。
 
懐中温泉