懐中温泉です、
「癒しと労働の列島」篇第六十四話
小栗判官と照手姫
結は、自分の中に、ぽっかりとした空白ができて
いるのを感じていました。
何かを失ったわけではありません。
けれど、これまで支えになっていた言葉が、少し
遠くに退いてしまったような感覚がありました。
そういうとき、無理に考え続けるのはやめること
にしています。
結は、熊野へ向かいました。
熊野は、説明のつかない場所です。
信仰の中心だといえばそうですが、それだけでは
足りない。
修験の地だと言っても、物語が多すぎる。
人を拒むようで、同時に、誰でも受け入れてしまう。
熊野川を渡り、山へ入ると、空気が変わります。
湿り気を帯びた緑の匂い、足元の柔らかさ、音の
吸われ方。
結は、ここでは言葉よりも身体が先に反応する
ことを思い出しました。
宿で手に取ったのは、熊野比丘尼が語ったという、
小栗判官と照手姫の話でした。
有名な物語です。
毒を盛られ、病に倒れ、身動きできなくなった小栗判官。
車に乗せられ、土に引きずられ、熊野へ運ばれる。
照手姫は、身分を失い、流れ流れて、再び彼と出会う。
結は、何度も聞いた話なのに、今回は少し違って
聞こえました。
この物語には、英雄の輝きはありません。
あるのは、衰えた身体と、移動です。
立つことも、歩くこともできない状態で、それでも運ばれ
ていく。
熊野へ向かうという一点だけが、かろうじて残されて
いる。
小栗判官は、自分で熊野を目指したわけではあり
ません。
人に引かれ、場に導かれ、気づけばそこにいる。
結は、その受動性に、なぜか強く引きつけられました。
熊野は、治す場所ではありません。
裁く場所でも、救済を約束する場所でもない。
ただ、そこに至る過程そのものが、意味を持ってしまう
場所です。
物語の中で、小栗判官は、熊野の湯に浸かることで、
少しずつ回復していきます。
奇跡と呼ばれる場面ですが、結はそこを強調しません
でした。
むしろ気になったのは、なぜ「湯」なのか、という点です。
薬ではなく、祈祷でもなく、湯。
身体を包み、判断を一時的に止め、時間を引き延ばす
もの。
照手姫の存在も、結には重く感じられました。
彼女は導く人ではありません。
支配することも、説明することもありません。
ただ、離れず、待ち、流され、再び近づく。
結は、熊野の道を歩きながら思います。
この物語が、長く語り継がれてきた理由は、教訓に
あるのではない。
弱った身体が、移動の途中に置かれたとき、どう
なるのか。
その不安と、かすかな希望が、ここにはある。
熊野比丘尼たちは、この話を語り歩きました。
定住せず、寺にも縛られず、村々を巡り、物語を手
渡していく。
語ることは、信仰であり、生活であり、移動の理由
でもありました。
結は、語りと湯が、同じ役割を持っているように
感じました。
どちらも、立ち止まらせ、しかし、留めない。
回復しても、しなくても、また道は続く。
熊野の湯のそばで、結はしばらく座り込みました。
何かを理解しようとはしません。
ただ、物語が身体に沈むのを待ちます。
小町の姿は、ここにはありません。
けれど、照手姫の歩き方には、どこか似たものが
ありました。
強さではなく、離れないこと。
説明ではなく、同行。
結は、ここで初めて、自分の中の空白を否定しなくて
いいと思えました。
小栗判官は、空白のまま運ばれ、空白のまま湯に入り、
空白のまま回復していった。
意味は、あとから付いてきたのです。
熊野は、そういう場所でした。
理解されることを急がず、回復を約束せず、それでも、
人を何度も引き寄せてしまう。
結は立ち上がり、また歩き出します。
別府へ戻るのか、別の湯へ向かうのか、まだ決めて
いません。
けれど今は、この物語を身体に預けたまま、もう少し
だけ、熊野の時間の中にいたいと思いました。
空白は、欠落ではない。
物語が入り込む余地なのだと、熊野の山は、何も言わず
に教えてくれていました。
