懐中温泉です、
「癒しと労働の列島」篇 第五十四話
湯仲間は、長いあいだ、別府の温泉利用を
支えるための柔らかな枠組みとして機能
していました。
境界は存在していましたが、それは排除の線
ではなく、関与の度合いを測るための目安
に近いものでした。
しかし、結は史料を追ううちに、この枠組みが
次第に別の性格を帯びていく過程に気づき
ます。
湯仲間は、やがて管理制度へと姿を変えて
いくのです。
転機となったのは、温泉を利用する人の数と
種類が、質的に変化したことでした。
別府の湯は、周辺地域だけでなく、より遠方
からも人を引き寄せるようになります。
滞在期間は延び、湯治は一時的な利用から、
長期の生活形態へと近づいていきました。
その結果、湯の状態を安定して保つ必要性が、
これまで以上に強く意識されるようになりました。
湯仲間による調整は、基本的に顔の見える
関係を前提としていました。
しかし利用者が増え、入れ替わりが激しくなると、
その前提は揺らぎます。
誰が責任を負うのか、誰が費用や労力を
分担するのか。
暗黙の了解だけでは処理しきれない場面が、
少しずつ増えていきました。
ここで初めて、「決まり」が必要とされます。
湯の掃除の順番、利用時間の目安、破損が
生じた場合の対応。
こうした取り決めは、最初は口頭で共有され、
やがて簡単な記録として残されるように
なります。
結は、この段階を「制度の萌芽」と捉えました。
まだ抽象的な規則ではなく、具体的な行為に
即した約束としての制度です。
重要なのは、この管理制度が、外部から
一方的に押しつけられたものではないと
いう点です。
多くの場合、それは湯仲間の内部から
生まれました。
湯を使い続けたいという願いと、使い続ける
ためには一定の秩序が必要だという認識が、
制度化を後押ししたのです。
管理は支配ではなく、持続のための手段と
して受け入れられていきました。
しかし同時に、制度化は境界をより明確に
します。
湯仲間に属する者と、そうでない者。
決まりを守る者と、守らない者。
これまで曖昧だった差異が、言葉と手続きに
よって固定され始めました。
結は、この瞬間に、温泉利用が新しい段階に
入ったことを感じ取ります。
別府の場合、地形の分散性が、この変化を
一様なものにしませんでした。
すべての湯が同時に、同じ強度で制度化
されたわけではありません。
ある湯では厳密な管理が進み、別の湯では
従来の柔らかさが残りました。
その差異が、別府全体としての多様性を保つ
役割も果たしていました。
結は、管理制度の成立を、単純な「自由から
統制への移行」としては捉えませんでした。
それは、関係が複雑化した結果として生じた
再編であり、湯仲間が自らの限界を自覚した
ことの表れでもありました。
制度は、関係を断ち切るためではなく、関係を
延命させるために導入されたのです。
ノートに、結はこう記します。
――管理制度とは、支配の始まりではなく、
調整の記憶である。
この視点に立つと、別府の温泉史は、制度に
よって自然が抑え込まれていく物語ではなく、
自然と人の関係が、形を変えながら続いていく
物語として見えてきます。
次に見なければならないのは、この管理制度が、
どの段階でより強い権力と結びついていくのか
という点です。
湯仲間の内側で生まれた秩序は、やがて外部
の権力と出会い、新たな意味を帯びていきます。
その接点こそが、次の大きな転換点となるはず
でした。
