懐中温泉です、
鉄(くろがね)の湯・第十九話
嬉野の「御前湯」は、藩が直轄するというだけあり、
活気ある町筋の喧騒が嘘のように、 静かで、
厳格な空気に満たされていました。
その湯屋の片隅で、 帳面を片手に湯頭らしき
男性と話す、 身なりの良い武士。
彼こそが、この「仕組み」の 中心にいる人物に
違いありません。
私は、意を決して その武士に声をかけました。
「恐れ入ります。 わたくしども、旅の者ですが、
こちらの湯は、 まことに見事に管理されて
おりますね。
湯にも、決まり事にも、 治める方の強い意志を
感じます」
武士は、帳面から顔を上げ、 私たちをゆっくりと
一瞥すると、 意外にも穏やかな口調で答えました。
「うむ。わしは、この地を治める 鍋島の藩に
仕える者。 この嬉野の湯は、 藩にとって重要な
『資源』ゆえ、 湯奉行として管理を任されておる」
「湯奉行…! やはり、お役人様が いらしたの
ですね」
私がそう言うと、武士は 深く頷きました。
「この湯は、街道を行く人々の癒しであると同時に、
我が藩の『富』の源泉でもある。
そして、それは金銭だけの話ではない」
彼は、湯船の向こうで 気持ちよさそうに湯に浸かる、
数人の男たちを顎で示しました。
その手足は、どこか見覚えのある、 粘土で
荒れた陶工の手でした。
「彼らは、有田の山で 藩の御用の焼き物を
作らせている者たちだ。
彼らには、定期的に この湯で湯治をすることを
『義務』付けておる」
「義務、でございますか?」
小町さんが、驚きの声を上げます。
「そうだ。 彼らの健康こそが、 藩の生み出す
焼き物の質を定め、 それが長崎の出島を通じ、
異国との交易の柱ともなる。
彼らを癒すことは、 慈悲などではない。
藩の力を保つための、 重要な『政策』なのだ」
政策。
その一言に、 これまでの旅のすべてが繋がり
ました。
出雲の村下が言った 「鉄は国の活力」。
筑紫の役人が言った 「癒しと政治は一体」。
そして、今、目の前の武士が言った 「癒しは政策」。
大陸から渡ってきた「知恵」は、 この国で、
藩という「経済主体」によって 管理・運営される
「産業システム」へと 昇華されていたのです。
その事実に、阿国さんが 興奮したように身を
乗り出しました。
「なるほどねえ、湯奉行様! つまり、職人たちが
体を壊さず 良い仕事をし続けられるように、
藩がお金を出して 湯治をさせている…
そういう『仕組み』ってわけだ!」
阿国さんの率直な物言いに、 湯奉行は、わずかに
口元を緩めました。
「…踊り子のようだが、 話が早くて助かる。
その通りだ。 彼らが体を壊せば、 藩の焼き物
という『富』が失われる。
彼らに湯を使わせることは、 いわば『未来への投資』よ」
「投資…」
私は、そのあまりにも 現代的な響きを持つ言葉に、
息をのみました。
「では、あの高札にあった 『湯の心得』も…」
「うむ。あれも政策の一環だ。 この湯は、藩の貴重な
財産。 それを、身分に関わらず 誰もが等しく、
清らかに利用できるようにするための 『法』よ。
癒しの場に、 無用な争いや不潔を持ち込ませぬ
ためにな」
私たちは、湯屋の真ん中で、 この国が築き上げた、
「産業と癒しのシステム」の 完成形を目の当たりに
しました。
それは、民の互助や 信仰心だけに頼るものでは
ない。
「健康な労働力こそが国富の源泉である」 という、
極めて合理的で、 冷徹でさえある 「政治」と「経済」の
システムだったのです。
湯から上がると、 小町さんが、街道を行き交う
人々の活気を、 これまでとは違う目で見つめて
いました。
この賑わいも、 あの湯屋の静けさも、 すべてが
「政策」によって 支えられている…。
その事実に、彼女は 深く心を動かされたようでした。
やがて彼女は、 静かに歌を詠みました。
「火を熾し 土を育むも 湯を頒つも 民を富まする
治の御心か」
(炎を熾して鉄や器を作り、 土を耕して作物を
育てることも、 こうして湯の恵みを人々に
分け与えることも、 すべては民を豊かにし、
国を治めようとする、 尊い「政治」の心なのですね)
