風土記の湯 | 「中年の危機」に陥った、ごく普通の50代男性が、3日・2週間・1ヶ月の3段階で人生をやり直す、潜在意識活用システム 真「幸せの時間」

「中年の危機」に陥った、ごく普通の50代男性が、3日・2週間・1ヶ月の3段階で人生をやり直す、潜在意識活用システム 真「幸せの時間」

潜在意識の働きで、あなたは「スーパーなあなた」になるのです。そのための素材・方法も実はあなたの手元にすでに多くあります。ここでは、あなたがそれを見出し、活用するお手伝いをいたします。胎児(あなた)は、胎児(あなた)の夢により進化します。

懐中温泉です、

 

鉄(くろがね)の湯、第二話

 

 

美作の国を後にし、私たちが踏み入れた出雲の地は、

空の色からして違うように感じられた。

 

雲は低く垂れ込め、山々の稜線は湿った大気に

溶けている。

 

まるで、八百万の神々が吐く息吹が、この国全体を

柔らかな靄で包んでいるかのようだ。

 

神話の時代から続く独特の気配が、旅人である

私たちの肌を撫でていく。

 

「ここが、国譲りの神話の…、スサノオノミコトが

八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したという、出雲…」

 

小野小町は、道端に咲く野花に目をやりながら、

囁くように言った。

 

彼女の横顔には、都の雅とは異質の、荒々しくも

神聖な物語に対する畏敬の念が浮かんでいる。

 

私たちの目的地は、その八岐大蛇伝説の舞台と

なった斐伊川(ひいかわ)のほとりに湧く、古湯

であった。

 

その名は、海潮(うしお)温泉。

 

千三百年以上も前に編纂された『出雲国風土記』に、

一度入ればたちまちに容姿が麗しくなり、二度

入れば万病が癒えると記された「神の湯」である。

 

「風土記にまで記された湯…。

 

きっと、たたらを生業(なりわい)とする人々に

とっても、特別な癒しの場だったはずです」

 

私の言葉に、小町さんは静かに頷いた。 

 

海潮温泉は、湯原の雄大な「砂湯」とは趣を

異にしていた。

 

山あいの小さな谷間に、数軒の鄙びた宿が

寄り添うように建ち並ぶ、実に慎ましやかな

温泉場だ。

 

しかし、そのひっそりとした佇まいとは裏腹に、

どこからか賑やかな人の声と、軽快な笛や鼓の

音が聞こえてくる。

 

「まあ、何の騒ぎでしょう?」

 

音のする方へ誘われるように歩を進めると、

小さな宿場の中庭に人だかりができていた。

 

湯治客であろう老若男女が輪になり、その中心で

何かが行われているらしい。

 

手拍子と喝采が、谷間の静寂を破って響き

渡っている。

人垣の隙間から中を覗き込むと、そこに一人の

女性がいた。 

 

緋色(ひいろ)の小袖をたくし上げ、男物の裁着袴

(たっつけばかま)を粋に着こなしている。

 

しかし、何より目を引いたのは、その立ち居振る

舞いだった。

 

しなやかな肢体は、鼓の音に合わせて時に激しく、

時に艶めかしく躍動し、観る者の視線を釘付けに

する。

 

それは、宮中で見るような定められた型に則った

舞楽とは全く違う、もっと生の感情を爆発させたような、

自由闊達な踊りだった。

 

恋に悩む町娘の仕草をしたかと思えば、次の瞬間

には腰に差した木刀を抜き放ち、勇ましい武士の

ように見得を切る。

 

物語がくるくると展開し、観衆は彼女の一挙手一投足

にどっと沸き、あるいは固唾をのんで見守った。

 

「あれは…、舞、なのでしょうか…?」 

 

小町さんの瞳が、驚きに見開かれている。

 

彼女の知る「舞」の概念を、目の前の光景は

軽々と飛び越えていた。 

 

「ええ、ですが…見たこともない。

 

あれは、神事でもなければ、宴の座興でもない。

 

もっと新しい…人を楽しませるための、全く新しい

何かです」

 

やがて、ひとしきり踊り終えた彼女が、汗の滲む

額を袖でぬぐい、にっと笑って観衆に一礼すると、

ひときわ大きな拍手と投げ銭が舞った。

 

「ありがたや、ありがたや! 皆の衆の明日へ

の活力が、わちきの喜びでありんす!」

 

鈴を転がすような、よく通る声。

 

彼女は集まった銭を器用に拾い集めると、ふと、

輪の外れで立ち尽くす私たちに気づいた。

 

彼女の大きな瞳が、まっすぐにこちらを射抜く。

 

そして、ためらうことなく、こちらへつかつかと

歩み寄ってきた。

 

「お二人さん、旅の方だね? 見慣れない顔だけど、

わちきの踊り、楽しんでくれたかい?」

 

間近で見る彼女は、生命力そのものが人の形

をとったような女性だった。

 

化粧の下の肌は湯治で磨かれたのか艶やかで、

口元には人を惹きつけてやまない笑みが

浮かんでいる。

 

「はい、とても…。心を鷲掴みにされるような、

不思議な力のある踊りでした」 

 

私が答えると、彼女は「へえ」と面白そうに小町さん

に視線を移した。 

 

「そちらのお方は、お公家様かい? なんだか、

そこらの人とは匂いが違うようだ」 

 

「…わたくしは、小町、と」 

 

「こまち? いい名だね。わちきは阿国(おくに)。

出雲大社の巫女での、見ての通り、こんな踊りで

諸国を回っている者さ」

 

出雲の阿国。

 

その名を聞いて、私の背筋に電流のようなものが

走った。まさか。後にかぶき踊りの祖と謳われ、

一世を風靡する、あの?

 

「あなた方の旅の目的は?」 

 

阿国の問いに、私は湯原での出来事、たたら製鉄の

労働者と温泉の関係を追っていることを話した。

 

すると、阿国の目が一層輝いた。

 

「たたら! ああ、知ってるよ! あの人たちは、

わちきの踊りの一番の上客さ。

 

鉄を沸かす炎で疲れた心を、この湯で体を、そして

わちきの踊りで魂を癒しに来るんだ。

 

みんな、わちきの踊りを観ると、明日からまた

頑張れるって言ってくれる。だから、わちきは踊る

のさ!」

 

そう言って笑う阿国の姿に、私はたたらと温泉、

そして信仰だけではない、もう一つの環が見えた

気がした。

 

それは「芸能」という、人の心を直接癒し、明日への

活力を与える力。

 

「小町さん、阿国さん。もしよろしければ、あなた方の

お話を、もっとお聞かせ願えませんか」

 

古の歌の心が、当代随一の傾奇者の魂と、今まさに

交差しようとしていた。

 

海潮の神の湯は、私たちの旅に、また一つ、予期せぬ

宝物を授けてくれたのだった。

 

 
ご精読ありがとうございました。
 
懐中温泉