懐中温泉です、
箱根『魔の山』・第二十一日目
第二十一日目の朝。
最後の夜が明け、旅の終わりを告げる光が部屋に
差し込みました。
結は、この三週間で初めて、日課の体温測定を
しませんでした。
自分の身体が、自然のリズムと完全に調和して
いることを、もはや数字で確かめる必要は
なかったからです。
最後の湯治。ローマ風の大浴場には、一番乗りの
結の他には誰もいませんでした。
湯船に身体を沈めると、この二十日間、毎日
肌に触れてきた湯の温もりが、別れの挨拶を
するように、優しく身体を包み込みます。
結は、この湯に溶け込んでいる無数の魂たち
に、そして、この湯を生み出す地球そのものに、
心の中で深く感謝しました。
ここは、単なる温泉ではありませんでした。
肉体を清め、魂を洗い、時間を溶かす、
聖なる場所でした。
荷造りを終えた結の鞄の中には、読み終えた
『魔の山』が、旅の始まりとは全く違う重みを
持って収まっていました。
それはもはや、借り物の物語ではありません。
結自身の魂の変容の、確かな証人となって
いました。
チェックアウトのため、ロビーへと向かう。
そこには、この山で出会った人々が、
それぞれの朝の時間を過ごしていました。
手紙を書き終えたのか、晴れやかな表情で
葉巻を燻らせている老紳士。
新しい芽の出た薔薇の絵を、大切そうに
抱えている若い女性。
そして、スマートフォンを鞄にしまい、ただ
窓の外の景色を静かに眺めている、あの
若いビジネスマン。
彼らは、結の姿に気づくと、それぞれに、
静かな会釈を送りました。
言葉は交わさない。
しかし、その眼差しには、確かに魂の響き
合いがありました。
結は、自分がこの山に残していくものの
大きさと、同時に、彼らから受け取った
ものの豊かさに、胸が熱くなるのを感じます。
ホテルの玄関を出ると、秋の澄み切った
空気が、結の全身を包みました。
小町が、いつものように、そっと隣に寄り
添います。
「小町さん。あなたも、一緒に平地へ?」
結が尋ねると、小町は、初めて出会った時
のような、神秘的な微笑みを浮かべました。
「わたくしは、もとより、あなたの内に在る
ものです」
小町の姿が、陽光の中で、少しずつ透き
通っていきます。
「この山で、あなたは、わたくしの声を聞く
ための、魂の耳を澄まされました。
姿は見えずとも、わたくしは、あなたの内なる
泉のさざ波として、あなたの魂の歌の響き
として、これからも、常にあなたと共にあり
ましょう。
『同行二人』の旅に、終わりはございません」
その言葉と共に、小町の姿は、きらきらと
輝く光の粒子となって、結の身体の中へと、
静かに吸い込まれていきました。
結は、自分の内側が、温かい光で満たされて
いくのを感じました。
寂しくはなかったのです。
むしろ、これまで以上に強く、確かな絆で
結ばれたことを感じていました。
登山電車が、ゆっくりと山を下り始めます。]]
車窓から見える景色が、登ってきた時とは
逆の順序で、過去へと巻き戻っていくようです。
しかし、結の時間は、もう巻き戻ることは
ありません。
彼女の魂は、この山で過ごした三週間という
名の七年間を、その広がりと深さのすべてを、
確かに自らのものとしていました。
やがて、電車の窓から、平地の街並みが見えて
きます。
無数の建物がひしめき合う、直線的な時間と、
効率が支配する世界。
かつての結ならば、その光景に、一抹の憂鬱を
感じたかもしれません。
しかし、今の彼女は違いました。
彼女の目には、その無機質なビル群の一つ一つ
にも、そこに生きる人々の、無数の喜びや悲しみが、
魂の息遣いが、陽炎のように見えていました。]
平地もまた、この山と同じように、数え切れぬ
ほどの物語を内包した、愛おしい場所なのだ。
電車が、箱根湯本の駅に滑り込みます。
平地への帰還。
しかしそれは、後退ではない。
螺旋階段を登るように、同じ場所に戻ってきた
ように見えて、その実、全く違う次元へと至った、
新たな始まりでした。
結は、大きく息を吸い込むと、確かな足取りで、
プラットフォームに降り立ちました。
彼女の内には、小原の野生的な生命力と、
箱根の知的な静寂が、一つの豊かな泉となって
満ちています。
そして、その泉のほとりでは、小野小町が、
永遠の歌を詠い続けている。
『魔の山』での療養は終わりました。
しかし、時を超えた魂たちと共に、この世界を
癒やし、創造していく、結の本当の旅は、今、
始まったばかりでした。
