魂の器 | 「中年の危機」に陥った、ごく普通の50代男性が、3日・2週間・1ヶ月の3段階で人生をやり直す、潜在意識活用システム 真「幸せの時間」

「中年の危機」に陥った、ごく普通の50代男性が、3日・2週間・1ヶ月の3段階で人生をやり直す、潜在意識活用システム 真「幸せの時間」

潜在意識の働きで、あなたは「スーパーなあなた」になるのです。そのための素材・方法も実はあなたの手元にすでに多くあります。ここでは、あなたがそれを見出し、活用するお手伝いをいたします。胎児(あなた)は、胎児(あなた)の夢により進化します。

懐中温泉です、

 

箱根『魔の山』・第十九日目

 

 

詩、音楽、彫刻、そして料理。

 

結の「蘇生」は、創造という形で、次々と外の世界

へと溢れ出していきました。

 

しかし、第十九日目の朝、彼女はこれまでの

数日間とは違う、深い静けさの中にいました。

 

何かを生み出したいという衝動が、まるで嵐の後

の海のように、凪いでいたのです。

 

彼女は、自分の中に満ち溢れていたはずの、

あの魂たちの合唱が、今はただ静かに、寄せては

返すさざ波の音になっているのを感じていました。

 

それは、創造のエネルギーが枯渇したのでは

ありません。

 

むしろ、完全に満たされた器が、その内なる

豊かさの故に、静止しているかのようでした。

 

「満ち足りて、おられるのですね」 

 

バルコニーで、山の稜線を眺める結の隣で、

小町が言いました。

 

 「湧き出る泉も、やがては満ちて湖となる。

 

今のあなたは、その湖のようなもの。

 

無理に流れ出す必要はありません。

 

ただ、その豊かさを、静かに湛えていればよい

のです」

 

小町の言葉に、結は安堵しました。

 

創造し続けなければならないという、無意識の

焦りのようなものが、すっと消えていく。

 

そうだ、蘇生とは、何かを生み出すことだけ

ではない。

 

ただ、そこに「在る」こと。

 

その存在そのものが、静かな癒やしとなる

境地もあるのかもしれない。

 

その日の午後、結は何もせず、ただラウンジの

窓際の椅子に座り、移りゆく雲の形を眺めて

過ごしました。

 

本を読むでもなく、誰かと話すでもない。

 

しかし、その時間は決して空虚ではありません

でした。

 

彼女の静けさは、磁力のように、周りの空気を

穏やかに変えていきます。

 

一人の若い男性が、足早にラウンジを横切り

ました。

 

携帯電話を耳に当て、苛立った様子で仕事の話

をしています。

 

彼は、この山のゆったりとした時間とは明らかに

異質な、平地の速度と論理に支配されていました。

 

彼は一度、結の静けさに気づき、訝しげな視線を

向けましたが、すぐにまた自分の世界の喧騒へと

戻っていきます。

 

夕刻、結がローマ風の大浴場で湯に浸かった後

ラウンジでくつろいでいると、その若い男性が、

再び現れました。

 

彼は湯船につながる入り口の石の縁に腰掛け、

防水ケースに入れたスマートフォンを操作し、眉間に

皺を寄せています。

 

明らかに、この癒やしの空間に身を置きながら、

その魂はまだ平地の戦場にありました。

 

男は、ふと結の方を見ました。

 

浴室から流れてくる湯けむりの中で、ただ静かに、

目を閉じている彼女の姿。

 

その表情には、何の感情も浮かんでいないように

見えます。

 

しかし、その完全な静寂は、男にとって、異様なほどに

心をかき乱すものでした。

 

「……あなたは、退屈じゃないんですか」 

 

男は、耐えきれなくなったように、結に話しかけ

ました。

 

 「こんな山奥で、電波も弱くて仕事もままならない。

時間を無駄にしているとは思いませんか。

 

一体、何のためにここに?」

 

その問いは、かつて結自身が抱いていた焦り

そのものでした。

 

結はゆっくりと目を開け、男を見ました。

 

その瞳は、磨かれた鏡のように、男の焦燥を、

ただ静かに映し返していました。

 

「無駄な時間など、あるでしょうか」 

 

結の口からこぼれたのは、ごく短い、問い返し

でした。

 

しかし、その声の響きは、男の心の鎧を、静かに

貫きました。

 

それは、論理や説得ではありません。

 

ただ、絶対的な静寂から生まれた、一つの純粋な

響きでした。

 

男は、言葉に詰まりました。

 

彼は、反論の言葉を探そうとしました。

 

効率、生産性、自己投資。

 

彼の世界を支えてきた言葉たちが、頭の中を駆け

巡ります。

 

しかし、目の前の結の、湖のような静けさの前では、

それらの言葉はすべて、空虚な音となって消えて

いきました。

 

彼は、結の瞳の奥に、何か信じられないものを

見た気がしていました。

 

それは、一人の女性の瞳ではなかったのです。

 

無数の星々が瞬く、夜空のような、どこまでも続く

広がりと、深い安堵。

 

その眼差しに見つめられていると、自分が必死に

守ってきた「個」という輪郭が、ゆっくりと溶け出して

いくような、甘美な恐怖を感じました。

 

「……失礼」 

 

男は、それだけ言うと、逃げるように、足早に去って

いきました。

 

湯けむりの中に、再び静寂が戻ります。 

 

「満ちた器は、かき回さずとも、周りの水を清めるもの」

 

 小町の声が、湯けむりに溶けるように響きました。

 

 「あなたの『在る』という姿そのものが、一つの歌

となり、一つの癒やしとなったのです。

 

あれは、平地での鎧を、初めて脱ぎ捨てようとする

魂の、戸惑いの声でございましょう」

 

結は、その言葉の意味を、深く味わっていました。

 

蘇生とは、創造の果てにある、静寂。

 

そして、その静寂こそが、最も深く、静かな、癒やし

の力を持つのかもしれません。

 

三週間が七年になる秘密。

 

人々は、この山で、何かを得ようと必死になる。

 

しかし、本当の癒やしは、すべての行為を手放し、

ただ、この山の時間に、自分という存在を、静かに

明け渡した時に訪れるのかもしれない。

 

結は、湯の中で、ゆっくりと身体を伸ばしました。

 

自分の内なる湖が、今、この温泉と、そして世界と、

静かに一つになったのを感じていました。

 

 
ご精読ありがとうございました。
 
懐中温泉