懐中温泉です、
小原温泉・第十八日目
第三週、「蘇生」の四日目。
昨夜、小町の言葉と共に眠りについた結は、夜明けの
光の中で、これまでにないほどの静けさと共に目覚め
ました。
自分が「与える者」になったという実感は、彼女に重荷や
気負いを一切感じさせません。
それは、空が青いのと同じくらい、川が流れるのと同じ
くらい、ごく自然で当たり前のこととして、彼女の中に
ストンと収まっていたのです。
朝餉の席で、結は昨日詩を渡した女性と顔を合わせ
ました。
女性は結の姿を認めると、深く、静かに頭を下げ
ました。
その目にはもう、昨日までの深い疲労の色は
ありません。
まるで、長い間閉ざされていた泉の岩戸がそっと
開かれ、清らかな水が再び湧き出し始めたかの
ような、澄んだ潤いが宿っていました。
言葉は交わされませんでしたが、それで十分でした。
いや、言葉以上に雄弁な魂の挨拶が、二人の間に
交わされたのです。
その日の午前、結は小町と連れ立って、宿の近くの
小径を散策していました。
風が木々の葉を揺らし、木漏れ日が地面で踊る。
結は、その一つひとつの光の粒にさえ、生命の
息吹を感じていました。
角を曲がったところで、小さな男の子が石に
つまずいて転び、声を上げて泣いているのに
出くわしました。
母親が慌てて駆け寄り、その膝の擦り傷を
心配そうに覗き込んでいます。
「痛いの、痛いの、飛んでいけー」
母親は優しくそう言いますが、男の子の涙は
止まりません。
かつての結なら、遠巻きに眺め、気の毒に
思うだけで通り過ぎていたでしょう。
しかし、今の彼女は違います。
結は、まるで呼ばれたかのように、ごく自然に
二人のそばに歩み寄っていました。
「大丈夫?」
結がしゃがみ込み、男の子と目線を合わせると、
不思議なことに、あれほど激しく泣いていた
男の子が、ぴたりと涙を止めたのです。
結の眼差しには、ただ優しいだけでなく、
魂を芯から安堵させるような、静かで温かい力が
宿っていたからです。
結は、小径の脇に自生していた蓬(よもぎ)の
若葉を数枚、そっと摘み取りました。
そして、それを自分の手のひらで優しく揉み、
緑の汁が滲み出てきたところで、男の子の
膝の傷にそっと当てました。
「山の神様がね、『大丈夫だよ』って言ってるよ」
結がささやくように言うと、蓬の清涼な香りが
ふわりと立ち上ります。
それは単なる気休めの言葉ではありません
でした。
結を通して、この里山の慈しみが、確かな
癒しの力として男の子に注がれている。
母親は、結の一連の淀みない動きと、その場の
空気を一瞬で変えてしまった穏やかな佇まいに、
ただ息を呑んで見入っていました。
男の子は、もうすっかり痛みも忘れたように、
膝に当てられた蓬の葉を不思議そうに
見つめています。
結はにっこり笑って立ち上がると、母親に
一礼し、再び小町と共に歩き出しました。
「あなたは、ただ薬草の効能を用いたのでは
ないですね」
静寂を破ったのは、小町でした。
「あなたの手が、あなたの声が、あなたの
存在そのものが、癒しの薬となったのです。
あなたの内なる泉から溢れ出た水が、
他者の渇きを潤し始めた」
結は、何も答えませんでした。
しかし、心の中では、小町の言葉の意味が
深く理解できています。
自分が行ったのは、知識や技術ではない。
ただ、目の前の命と真摯に向き合い、自分の
内にあるものを分かち合っただけだ。
そして、その時、自分と男の子、そしてこの
里山全体が、一つの大きな生命の環(わ)で
結ばれているのを感じたのだ。
午後の湯は、いつも以上に柔らかく感じられ
ました。
湯船に浸かりながら、結は目を閉じます。
すると、湯の中に溶け込んでいる無数の人々の
記憶や願いが、さざ波のように伝わってきました。
それは、決して重いものではありません。
むしろ、自分もまた、この大きな癒しの流れの
一部なのだという、温かい安堵感をもたらして
くれました。
かつて自分は、一人で悩み、一人で癒されよう
ともがいていた。
しかし、本当の蘇生とは、個という殻を破り、
他者と、そして世界と、生命の環で結ばれる
ことだったのだ。
昨日、一人の女性に詩を手渡したことで始まった
癒しの環は、今朝、一人の男の子を包み込み、
そして今、この湯を通して、結の意識はさらに
大きく広がっていきます。
結は、そっと目を開けました。
湯面に映る自分の顔は、もはや東京にいた頃
の面影はありません。
それは、個人の顔というよりも、この小原の
自然そのものが、結という人間を通して微笑んで
いるかのような、深く、満ち足りた表情をしていた
のです。
