懐中温泉です、
「癒しと労働の列島」篇第百四話
https://youtu.be/_e-QyYLqnBA
二日目の朝、結(ゆい)は、伊香保の宿の障子
越しに差しこむ白い光で目を覚ましました。
時計を見ると、まだ六時台です。
黄金の湯のぬくもりが、脚の奥にほんのり
残っていて、草津での初日よりも、起き上がる
ときの重さが少し軽く感じられました。
ちゃぶ台の上には、昨夜のうちに開いたまま
にしておいたノートがあります。
「伊香保湯治 二日目」とページをあらため、
まずは一行、「慣らし期。湯は一日二〜三回、
短時間」と書き込みました。
江戸期の湯治記録で、二日目・三日目あたり
から入浴回数を増やしつつも長湯を避けて
いることを思い出しながら、自分なりの時間割
を組み立てていきます。
朝食は、前日に決めた通り、ごく簡素です。
土鍋で炊いた米を軽く一膳、味噌汁は豆腐と
青菜を具にして、塩気も控えめに整えます。
昨夜仕込んだ糠漬けの胡瓜を二切れと、
梅干しを一つ。
皿数だけ見れば寂しいようですが、結は
「湯治は“ちょっと足りない”くらいがちょうど
いい」と、竹山日記や養生書にあった言葉を
思い出し、箸を静かに進めました。
食後、部屋の片隅で少し休んでから、最初の
朝湯に向かいます。
二日目の朝湯は、「短い全身浴」と決めて
いました。
湯殿に入ると、湯気の向こうに、茶褐色の
黄金の湯が静かにたたえられています。
洗い場でざっと身を清め、まずは足首まで、
次に膝、腰と、段階的に浸かっていきます。
最後に、胸のあたりまで湯に沈め、肩が
湯面に触れるかどうかというところで
止めました。
「数えて十くらいで上がること」——結は心の中
でそう決め、湯の中でゆっくり呼吸を数えて
いきます。
肩までしっかり浸かるのは、最後の数呼吸
だけ。
時計は見ません。
湯から上がると、湯殿の隅でバスタオルを
羽織り、髪をざっと拭いて、そのまま部屋
へ戻りました。
湯上がりの“湯冷め”を避けることも、
江戸の湯治作法では繰り返し強調されて
いたからです。
布団に横になると、じわじわと汗がにじんで
きます。
ペンを手に取り、ノートの「朝」の欄に、
「朝湯一回。半身〜胸まで。
湯上がり、脚の芯から温まり、手の指先
まで血が通う感じ」と走り書きしました。
午前中は、湯治らしく、あえて何もしない
時間を作ります。
本を開いてもすぐに眠気がさしてきて、
結はうとうとしながら、遠くから聞こえる
石段の足音や、台所で米を研ぐ水音を
耳の奥で追いかけました。
正午が近づいたころ、共同台所へ向かい
ます。
今日の昼食は、伊香保の土地に合わせて
少しだけアレンジすることにしました。
米を少なめに炊き、味噌汁の具には、
朝、石段の下の店で手に入れたこんにゃく
と葱を足します。
群馬は古くからこんにゃくの産地として
知られ、現代の伊香保でも刺身こんにゃく
や煮物が定番の一品になっています。
せっかくなら、土地のものを湯治の献立に
少しだけ取り入れたいと結は思いました。
鍋に出汁をひき、薄切りのこんにゃくと
葱を入れて煮立て、最後に味噌を溶き
入れます。
米は、昨夜と同じ土鍋で炊き、今日は
ほんの少し硬めに炊き上げました。
「噛む回数が増える分、食べすぎを
防げるかもしれない」と、これもまた
自分なりの工夫です。
昼食後、部屋に戻って少し休んだら、
二回目の入浴です。
二日目・三日目は、一日三回まで増やす
つもりですが、体調しだいで「二回で
止める」選択肢も残しておくことにしました。
昼の湯は、朝よりもさらに短く、一度
しっかり肩まで浸かって、数分で上がる
ことにします。
湯殿への道すがら、結は石段の踊り場
から遠くの山並みを眺めました。
冬の名残を抱えた榛名の山の稜線が、
薄い霞の向こうに浮かんでいます。
湯治場の案内や温泉医学の資料には、
「湯だけでなく、静かな環境と空気その
ものが療養になる」と書かれていましたが、
その意味が少しわかるような気がしました。
二回目の湯も、上がったらすぐ部屋に戻り、
畳に大の字になって汗が引くのを待ちます。
ノートには、「昼湯二回目。今日はここまで。
体が重くならない程度の“ほぐれ”で止める」
と記録しました。
無理に三回目を押し込まず、「今日は二回で
十分」と判断を下すこと自体が、湯治の一部
だと感じ始めています。
午後の残りの時間は、食材の補充も兼ねて、
石段街をゆっくり歩きました。
観光客向けのスイーツや揚げ物の看板が
目に入りますが、今日は眺めるだけに
します。
代わりに、小さな八百屋で白菜と葱を
少し買い、豆腐屋で一丁だけ豆腐を手
に入れました。
夕食の鍋と、明日以降の味噌汁の具
になる予定です。
夕方、空が少しずつ暗くなりはじめたころ、
結はノートを開き、「本来なら三回目の湯に
入る時間だが、今日は二回で止める」と
書きました。
身体の奥に残る温もりと、軽い疲労感の
バランスを考えた結果です。
夕食は、昼に買った白菜と葱、豆腐を鍋に
して、そこに少量の味噌を溶いた
「湯豆腐寄りの味噌鍋」のような一皿に
しました。
米は昼の残りを少しだけ。
こんにゃくの煮物も、鍋の端で温め直して
添えます。
湯治二日目の終わりに、結は「今日の
からだと心」の欄に、次のように書き込み
ました。
「朝と昼で二回入浴。脚の冷えは明らかに
軽くなった。食事を軽くしたぶん、空腹感は
あるが、胃は重くない。石段を歩くとき、
膝のこわばりが少しやわらいだ気がする。
まだ“癒やされた”というより、“整えはじめた”
段階。」
一次資料から借りてきた「一日二〜三回、
短時間」「大食・大酒を慎む」という枠組みを、
自分の身体感覚で微調整していく。
その手応えを確かめながら、結の伊香保
湯治二日目は、静かに夜更けへと溶け
込んでいきました。
