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黒瀬友里

黒瀬友里ブログです。

19時を過ぎた、ほの暗い住宅街。

私は、ひとりの高齢の女性に声をかけました。

杖をつきながら、何度も立ち止まり、
夜の道を行ったり来たりしていらしたから。
いつもなら、「あら、お疲れさま」と
柔らかな笑顔を返してくださる方。

でも、その夜は違ったのです。
「……どなたさまですか?」
振り返った彼女の瞳に、私は映っていませんでした。

その瞬間、胸の奥が冷たくざわつきます。

私は慌てて、「すぐそこの家の者ですよ」と、努めて優しく名乗りました。

すると、途切れていた記憶の糸がゆっくりと手繰り寄せられるように、
「あぁ……」と、いつもの穏やかな表情が戻ったのです。

どうされたのか伺うと、
小さなメモを見せてくださいました。

「明日ね、ここへ行くの。でも、場所が分からなくなってしまって……」

そこに書かれていたのは、すぐ近所の美容室の名前でした。

行き先を案内すると、彼女は心底安心されたように、
何度も丁寧にお礼を言いながら、夜闇の向こうへ帰っていかれました。

けれど、私はしばらくその場から動けませんでした。

しっかりしている自分と、そうではない自分。

彼女は今、その境界線を行ったり来たりしながら、その線が少しずつ、少しずつ曖昧になっていく恐怖の中にいるのではないでしょうか。

人が新しく何かを「少しずつできるようになる喜び」があるとするなら、その真逆にあるのは、昨日まで当たり前だったことが「少しずつできなくなっていく不安と苛立ち」です。

そして何より恐ろしいのは、それが分かっているうちはまだ良くて、できなくなってきたことすら自覚できなくなってしまった時、本当の「その時」が訪れるということ。

認知症の怖さは、
そういうところにあるのかもしれません。

暗い住宅街を、
杖をつきながら歩いていかれた
あの小さな後ろ姿が、
今も頭から離れません。