臨済宗14派の一つ佛通寺派の管長まで務めた、
対本氏が結果的にその職を辞すことになっても、
医学部受験をし、医師を目指した理由を綴っている。
そこには、生老病死の専門家である僧侶が病に苦しみ、
死を恐れる人々の本当の意味での救いになりえていないことへの苦悩から、
医師の道を志たことがよく分かる。
そしてそこには若き日の父親の死が少なからず影響を与えていることが分かる。
思うことも大事だが、そこまでの人はたくさんいるだろう。
実際、今日の宗教のあり方に疑問を持っている僧侶の方も多いだろう。
しかし、実際にそれを実行に移す人がどれだけいるだろうか?
そこに対本氏の凄みがある。
いまどき下手な葬儀なら葬祭業者だって坊さんの代わりまでやってのける時代である。
僧侶の本来の役割はあくまでも生老病死の現場にこそあるはずなのだ。
ただし死とはいっても亡骸相手ではない。
死というプロセスの上で苦しんでいる生きた人に対して、どう安心を与えてゆくかがつとめであろう。
だから僧侶も、もっとさまざまな現場に出て現実に直面し、
人々とともに大いに苦悩しなければならない。
苦悩のないところにはいかなる光明も生まれないはずだから。
遠くまで声を届かせるためには、できるだけ高所に立って叫ばねばならない。
あるいは強いて声を上げなくとも、峠の灯火ならば多くの人の目に至り、
人々はその光を目指して暗夜の山徑を登ってくる。
若輩ながら仏縁あって就いたポストである。
せっかくの立場を生かすべきことを考えれば、
両道を掛けていると受け取られようが批判は甘受しよう。
こういう信念のもとに私は敢えて二股を掛ける道を選んだ。