ちょっと大げさなタイトルだけれど、この週末の二つの番組で思ったことあり
(読み返してみると当たり前のことなのですが。。。)
1つ目の番組;
昨日白鵬が優勝した
相撲は詳しいわけではないが、この実績・結果は立派であるのは間違いない
問題は優勝インタビューである
言葉少なに語る;
色々あったが、自分の満足のいく相撲でよい相撲がとれて、すなわち優勝だったと。
この言葉が難しい
つまり、色々あった→自分の今までの発言・言動が騒がれていることを自覚している
その上で、自画自賛したというわけである
恐らくこの自画自賛の表現、これもまた多くの憶測を呼ぶ表現であった・・・と思う↓
1つには、やはり自分の行動の正当性を相撲で示してやったという“傲慢さ”
一方では、色々と雑念はあったが、相撲だけに自分を置いてこの初場所を過ごしたという、“覚悟”への賞賛、慰安
また、そもそも自分の正当性を誇示すること、あるいは成果をアピールすることが純粋な“美徳”であるとする、非日本的精神に基づくもの(ここでいう日本的精神:奥ゆかし、能あるタカは爪を隠す)
などなど
さて、以前どこかである政治家の言葉として、「政治家たる者、発言にはその“場”、“人”、“時”によってその解釈のされ方は変わってくる、そしてそれはその発言したものに責任がある」
ということを耳にしたことがある
ここに、もう一度発言する者、受け入れる者のお互いが反省する場面があるのだと思う
確かにそういう意味では白鵬はその立場、発言の対象となる相手、そしてその発現のタイミングいずれもが、適切ではなかったようには思う
しかし、逆にいえば、本人の言葉を聞く側の心にもこの相撲界の偉業に対する勝手な期待を押し付けてその規範となる行動を求めてはいなかったか!まさに適切かどうかは受け止める側にあるのだから
もちろん相撲は国技でありまさに国民のスポーツマンシップの象徴となることが期待されている
そのことは白鵬にも学んでいただきたい(しかしこの言葉にも、決して一方的なものではないことが、この後に述べる二つ目の番組の話でわかってくるだろう)
一方で、もし、今回の件で白鵬が批判されているというのであれば、憂うべきはむしろその白鵬を支えるべき周囲や白鵬という力士を受け入れる我々の精神の度量にあるのだと今一度心に刻みたい
この発言する側と、受け入れる側の摩擦はなぜ生じているのか!
最近よく考えていたことが、次に紹介する番組にヒントを得て少しまとまった。。。。
(興奮交じりに、また明日)