食卓と世界はリンクする。

【お皿に残せるということ】

  

私が子供の時代は、出されたものは

残さず食べることが美徳とされた。

  

給食だって食べ終わるまで遊べない。

生のトマトが苦手な私は、オエってなるのを

我慢して丸呑みするように食べていた。

  

自分が嫌いなものでも我慢して

残さずに食べなくてはいけない…

  

この体験は食卓から離れると

どんな風に育つだろう???

  

望診のセッションをしていて

かつての私のように

残せない大人の方がたくさんいる。

そして、大人になっても、忠実に

守っている方の多くに見られるのは

人からのお願いが断れない、だったり

もしくは、お願いされないように

距離を取るだったり。

  

お皿にお願いが乗った瞬間に

食べる以外の選択肢がないと

お腹いっぱいなのに、

苦手な事なのに、食べてしまったり

そもそもお皿に乗らないように立ち振る舞ったり…に繋がるかもしれない。

    

お皿に乗せる事(受け止めること)と

食べること(引き受けること)を

分けて考えられると、

無理に食べることが減ったり

見ないようにしていたお皿の外の世界に

目を向けられるかもしれない。

  

それは、お皿に残す体験を尊重してあげることで

作っていけるのではないかと思っている。

  

うちの子供たちはなんでも食べる。

だけど、時々残すこともある。

その時は少しも箸をつけてないものだと

とりあえず、少しだけ食べて見てもらってる。

(見た目で判断してても一口食べたら美味しいとなることもあらから)

そして残すなら、

どうして残したいのか?

食べたらどんな感じになりそうか?

を聞いている。

  

味がなんか嫌だ、

食感が好きじゃない、

なんとなく苦手だ、

これ以上食べたら苦しくなる、

  

まぁ色んな理由がある。

そんな理由も感じることで、

口ではないものを頂き味っている。

  

ただ、残したという事実だけだと

せっかく作ったのに悲しいという方は

特に試してみてほしい。

お母さんが料理が上手くないからでも

なんでもなくて、ただ、子供が

その時は、それが「いま」必要なかっただけで

そして、それを「未来」まで持っていかなくてもいい。

なんで?って不思議に思うかもしれないけれど、

明日に同じものを出して食べることもある。

子供は思考で食べないから、大人が理解できないことが起こる、それだけ。

  

お皿に残せる子供は

私の料理を受け取ってくれなかった、

のではなく、

自分でその子自身を大切に出来ている

ということ。

  

それは将来的に、食べられないものを

無理に食べて苦しまないということ。

ただ、子供が残して、お母さんが何か思ってしまうなら、それは素直に伝えてみてもいいだろうし、残す時の言い方を一緒に考えてみてもいいよね。

それが、アサーションの練習にもなるね。

(アサーション:自分の意見を相手を尊重しながら伝える表現手法)