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2010-05-02 20:40:00
テーマ:歴史 南京
蒋介石の謝罪
「興亜観音を守る会」の会長であり、
「南京事件」の研究家として知られている田中正明氏は、
1960年、岸内閣の時に締結された日米安全保障条約を積極的に支援し、
岸首相のいわば私的ブレーンのような役割を担った方である。
その田中氏が岸首相から、
「これからは台湾がアジアの平和にとって大変重要な地位になる。
これから台湾に行って蒋介石とも会い、台湾の軍事基地も見学して、
将来のアジアの平和について考えてほしい。
蒋介石氏には私から紹介状を書いておく」と言われ、台湾を訪問したが、
紹介状のおかげで、準国賓級の待遇で迎えられた。
そして最後の蒋介石総統との会見の席上、
何應欣将軍を初め多くの政府要人が同席している中で、
蒋介石総統が悔恨の涙を流したという。
蒋介石
一週間後、
台北の旧総督府で蒋介石その他の要人とのお別れの宴が開かれた時だ。
最後に田中氏が、蒋介石総統の前に進み出て、
御礼の挨拶をした後、
「私は昭和16年(1936)2月に松井石根閣下と二人で、
(蒋介石)閣下にお目にかかったことがございます」と告げると蒋介石総統は、
「松井石根」という名を耳にした瞬間、顔色がさっと変わり、
目を真っ赤にし、涙ぐんで「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」。
手が震え、涙で目を潤ませてこう言うのです。
松井石根閣下
「南京に大虐殺などありはしない。
ここにいる何應欣将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを、
記録してあるはずです。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と言いながら、
涙しつつ田中氏の手を二度三度握り締めたという。
南京は中華民国の首都であり、蒋介石は同国の総統であった。
一国の最高責任者が明言するのであるから、
その言に耳を傾けるべきであろう。
「騙される日本人」 PHP刊より
「南京大虐殺」はなかった 1/4
2010-05-04 12:00:48
テーマ:歴史 南京
私は評論家でも歴史学者でもございませんし、
もちろん右翼というような者でもありません。
ただ南京攻略に参加した一人の軍人です。
昭和12年7月蘆溝橋事件勃発後、9月に第16師団(京都)に動員下令、
私は歩兵第20連隊(福知山)中隊長として出征し最初は北支に上陸、
次いで師団は11月17日上海付近に上陸、その後連日戦闘追撃を続け、
12月9日に南京の東北地区に進出しました。
日本軍と南京市民
途中で連隊長の入院、大隊長代理戦死の為、
私が大隊長職を代行して大隊を指揮し、南京総攻撃に参加致しました。
南京は、昭和12年12月13日完全に占領されましたが、
私は翌年の1月下旬まで約一ヶ月余り、
南京及びその近辺で警備に任じられておりました。
いわゆる「南京大虐殺」があったと言われているその時、
その場所にいて、当時の南京およびその付近の状況はこの目で見て、
この身体で体験している者であります。
私が今からお話します事は、いわゆる「南京大虐殺」と言われている議論が、
本当はどういうものであるかという事を知って頂き理解して頂いたならば、
一人でも多くの人に真相を語り伝えて、
世間の誤った考えを正して頂きたいと考えております。
当時第一戦において部下と共に戦い、
たくさんの部下を戦死により亡くしました指揮官と致しまして、
「南京大虐殺」というような真に話にもならない暴論がいかにも、
まことしやかに伝えられ、
しかもそれを大部分の日本人が些かも疑いを持たないで信じている状態は、
何としても我慢の出来ないことなのです。
共に戦った戦友、
ことに日本の将来を信じて戦死して行った多くの戦友や部下に対して、
全く根も葉もない濡れ衣が着せられている事は、
私ども生き残った者にとっては、黙っていては申し訳の無いことだと感じており、一人でも多くの人に真実を知って頂きたい、その為に自分が役に立つならば、
どんなに遠くでもどんなに忙しくても出掛けて行って真実を話したい、
また下手な文章であっても書いて、
それを活字にして残しておかねばと願っているのであります。
森王琢氏
平成4年4月、岡山国民文化懇談会にて
「南京大虐殺」はなかった 2/4
2010-05-04 14:00:54
テーマ:歴史 南京
南京大虐殺論は、なぜ起こったか
これだけ大きな戦争をやったのです。
何十万、何百万という軍隊が命懸けで動いているのです。
しかしながら「大虐殺」などという事が、何故言われるようになったのか。
その第一は、戦後に東京裁判において、
検事側の証人の証言により始めて問題とされたのであります。
日本軍を拍手で迎える南京市民
1937年(昭和12年)12月13日、米国パラマウント・ニュース撮影
支那人の他、当時南京城内にいた宣教師、医師、大学の教授等が、
悪意ある証言をし、それが検証もされずに採択された事が、
第一の原因であります。
第二は、東京裁判が進行するに従って、
NHKラジオの「真相はこうだ」という番組でおひれを付けて放送したことです。
ただしこれは、当時占領政策として占領軍がNHKの報道を統制し、
指導をしていた事によるという事は十分に考えられるのであります。
第三は、新聞報道機関が「虐殺、云々」と盛んに書きたてた、
それを一般の人が信じるようになった事であります。
NHKラジオ放送と同様、
統制されていたために新聞等もそのように書いていたのでありましょうが、
報道統制が解けてからはNHKラジオは余りそういう事は言わなくなりましたが、新聞はその後も依然として書き立てていた。
しかも「一流紙」と言われる朝日、毎日、
読売、あるいは有力な地方紙などが態度を改めなかったものですから、
一般の人も信じるようになったわけであります。
「南京大虐殺」はなかった 3/4
2010-05-04 15:00:55
テーマ:歴史 南京
東京裁判における検事側の証言
いわゆる「南京大虐殺」は東京裁判で言われるようになったと申しましたが、
ならばその東京裁判とはどういうものであったか。
東京裁判の全般について詳しく立ち入ることは差し控えますが、
第一には裁判という形を取った戦勝国による日本への復讐であります。
第二には日本の「歴史の断罪」であります。
つまり日本の歴史を始め、日本古来の道徳も、宗教も、家族制度の教育も、
日本にあったものは全て悪いものなんだという決め付けであります。
第三は、日本人に自虐観念を植え付け、
洗脳し、精神的に弱体化しようとしたことであります。
また裁判の運営についても、
(1)偽証罪の無い裁判であった事。
(2)検事側の証言は明瞭な偽証であっても無批判に採択し、
弁護側の証言は多くあるいは抹殺された事。
(3)公正なるべき判事が安易に検事に同調し、
検事と全く同じ立場で運営している事。
(4)弁護人の原爆投下の責任追及、ソ連の不法参戦の追及を、
裁判長が「本裁判に関係無し」として発言を封じた事。
(5)判決は11名の全判事合議によるべきにも関わらず、
一部多数派の偏見的意見のみにより判決を強行しております。
日本軍侵攻後の南京で、爆竹で遊ぶ子供達。
その不当な事は明かなのであります。
「南京大虐殺」に関する検事側証人のデタラメな証言は、
偽証罪が無いのですからことさらに被害を大きく、
いわゆる白髪三千丈的証言がなされ、
弁護人の反対尋問によってそのウソが暴露され、証言した証人や、
それを採用した検事がむしろ恥をかき、失笑をかったという事さえありました。
「南京大虐殺」はなかった 4/4
2010-05-04 18:00:58
テーマ:歴史 南京
(1)アメリカ人牧師マギーの証言は、日本軍の殺人、強盗、強姦、
放火など、聞くに耐えない証言を1日半かけて行いました。
これに対してアメリカ人のブルックス弁護人が反対尋問したところ、
マギーの証言は、実際目撃したのはわずか2件で、ほとんどが噂を伝え聞き、憶測、はなはだしきは自分勝手な想像に過ぎない事が暴露されています。
マギー牧師
(2)その他、当時南京城内に居住していた牧師、
南京大学教授、医師、ジャーナリストなど、
多くは悪意に満ちた証言をしております。
(3)中国人の証言に至っては、全く白髪三千丈という証言であります。
宗教団体の紅卍字会副会長の許伝音という者の証言は、
「自分は4万3千人の死体を運搬して埋葬した」と言い、
また「34万人が殺害され、4千軒の家屋が焼き払われた」とも言っております。
しかし南京城内には、平時は100万人位の人口があったらしいのですが、
大部分は戦禍を避けて避難をしておりまして、
当時は精々15万人位であったろうというのが、割合確実な数字です。
それを34万人殺害されたと言っている。
家を4千軒焼かれたと言いますが、12月13日に占領した南京に、
私は15日に入りそれから約1ヶ月余りいたわけですが、
その間に1件の火事も焼け跡も見ておりません。
南京安全区国際委員会委員、マギー牧師撮影
日本軍入城後、笑顔の南京市民
「哀声地に満ち死体山を築き、我が軍民悉く掃射を受け、
死体揚子江を掩い、流水為に赤し」
中国人は当時の南京をこう表現しておりますが、
流石に中国は文章の国であると感心の他ありません。
揚子江は軍艦が南京からもっと上流まで上って来るのです。
対岸は霞んで見えません。
その流水が「為に赤し」とは、何をか言わんやです。
(4)崇善堂という慈善団体が、
約15万から20万の死体を埋葬したと証言しています。
だいたい戦闘が終わりますと、作戦をした軍隊は一応「戦場掃除」といって、
敵味方の区別なく戦死者の遺体を片付けるのが軍事常識なのです。
我が軍がそういう片付けをしているのに、
そんなに多数の死体を埋葬したということはとても考えられないのであります。
同時に、そんなに多数の死体を埋葬するには、一体どんなに大きな穴を、
あるいはどんなにたくさんの穴を掘れば良いと言うのでしょうか?
考えただけでもウソだとお分かりになるのでしょう。
さらに東京裁判の判決は、全くデタラメ、支離滅裂のものでした。
第一に広田弘毅という方が、
軍事参議官の職にあったということで絞首刑になっております。
軍事参議官というのは軍人の、しかも大将、
元帥の古参の人だけが任じられる職であるのに、
外務大臣であった文官の広田弘毅が、
その職にあったという事で処刑されている。
あるいは陸軍大臣であった荒木貞夫という方は、
なったことのない総理大臣の肩書きで判決をされております。
またインドのパル判事は裁判中から「日本無罪論」を唱えておりましたが、
判決では一切無視されたばかりか、
これを印刷することも頒布する事も禁止されました。
このように東京裁判の不当な事は、
後になって裁判の管轄権者であったマッカーサーでさえ、
解任後帰国して大統領トルーマンに対し、東京裁判は誤りであったと告発し、
又主席検事であったキーナンも東京裁判論告や判決は、
厳しすぎたと言っております。
その他英国国際法権威ハンキー卿、米連邦裁判所ダグラス判事、
米国際法学者マイニア博士を始め、独・英などの国際法学者、
哲学者などもその不当性を厳しく批判をしており、
今やそれは近年国際法学界の共通の認識になっております。
然るに現在の日本の状態はどうですか。
半世紀以上経ってすでに独立国であるにも関わらず、
いわゆる進歩的と称する学者、文人、
評論家、マスコミの多くは依然として「東京裁判史観」
という麻薬に犯されたまま、
「東京裁判は正しかった、南京大虐殺はあったのだ」と言っているのです。
日本軍は、世界史上初の「略奪行為をしない軍隊」
2010-05-03 19:41:08
テーマ:大東亜戦争
中国政府は日中戦争で1200万人が死んだと強弁し、日本を非難している。
ところが、この数字はだんだんと増えている。
1985年には2100万人だと主張し、
それから10年あとの1995年には3500万人だといいだしている。
蒋介石と毛沢東
1200万人であれ2100万人であれ3500万人であれ、
このほとんどは国民党と共産党の内戦によって死んだのである。
当時の日本軍は、蒋介石の軍隊や毛沢東の軍隊とはまったくちがう、
紳士的な軍隊であった
文字どおり「人民解放軍」だったのである。
日本軍と南京市民のふれあい
日本軍はおそらく、世界史上初の「略奪行為をしない軍隊」であり、
これを裏づける記録はあちこちに残っている。
当時の中国の人口は4億で、平均寿命は25歳程度だった。
これは、戦争がなくても中国の人口のうち毎年1600万人が死亡するという、
意味で、日中戦争の15年間を通じて、
戦争がなくても2億4000万人以上が死亡したであろう。
このうち1200万人が日中戦争のせいで死んだというのは、
ただのコメディである。
むしろ毛沢東ではなく日本軍によって大陸が統一されていたならば、
現在の中国人の生活ははるかに向上していただろう。
過去の戦争において日本には正当性があったがドイツにはそれがなかった。
日本は生きる道を探してやむをえない戦争をしたが、
ドイツは他の民族を抹殺して支配者になるために戦争をした。
すなわち日本は名分ある戦争をし、ドイツは名分のない戦争をしたのである。
そしてもっとも重要な違いは、ドイツは民間人3000万人を虐殺したが、
日本は大量虐殺をおこなわなかったという事実だ。
中国が主張している南京事件や731部隊の残虐行為については、
まずは客観的な調査をとおして真実が明らかにされなければならない。
問題は、日本に関するかぎり中国や韓国が主張する資料には、
信憑性がないということだ。かれらは食事をするような感覚で、
必要に応じて歴史を歪曲しているのである。
金完燮 「親日派のための弁明」
1 ■私も伯父からこれからの人に伝えてほしい。
泣きながら、話を聞きました。
当時、伯父は満州で今でいうハローワークの仕事をしていました。日本軍は従軍慰安婦を買うことも禁止されていたし、もし寝るようなことがあれば睡眠薬を飲まされて腕時計など盗むひどい女どもだったし買えば次の日、貴様それでも軍人か?と殴られるぐらいだったと聞いています。横須賀のパンパンのほうがよっポロかわいそうです。
南京大虐殺は中国共産党のやらせで平気で女を犯し、子どもも殺す。それを日本の朝日新聞が品軍がやったことに日本共産党とした。それを日教組が今も当たり前のように授業で教えている。
こんな腐った嘘早く消していただかないと伯父の供養になりません。
jnakamura611 2010-05-04 13:23:37 >>このコメントに返信
「南京に虐殺など無かった」 当事者、蒋介石の証言
2010-05-02 20:40:00
テーマ:歴史 南京
蒋介石の謝罪
「興亜観音を守る会」の会長であり、
「南京事件」の研究家として知られている田中正明氏は、
1960年、岸内閣の時に締結された日米安全保障条約を積極的に支援し、
岸首相のいわば私的ブレーンのような役割を担った方である。
その田中氏が岸首相から、
「これからは台湾がアジアの平和にとって大変重要な地位になる。
これから台湾に行って蒋介石とも会い、台湾の軍事基地も見学して、
将来のアジアの平和について考えてほしい。
蒋介石氏には私から紹介状を書いておく」と言われ、台湾を訪問したが、
紹介状のおかげで、準国賓級の待遇で迎えられた。
そして最後の蒋介石総統との会見の席上、
何應欣将軍を初め多くの政府要人が同席している中で、
蒋介石総統が悔恨の涙を流したという。
蒋介石
一週間後、
台北の旧総督府で蒋介石その他の要人とのお別れの宴が開かれた時だ。
最後に田中氏が、蒋介石総統の前に進み出て、
御礼の挨拶をした後、
「私は昭和16年(1936)2月に松井石根閣下と二人で、
(蒋介石)閣下にお目にかかったことがございます」と告げると蒋介石総統は、
「松井石根」という名を耳にした瞬間、顔色がさっと変わり、
目を真っ赤にし、涙ぐんで「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」。
手が震え、涙で目を潤ませてこう言うのです。
松井石根閣下
「南京に大虐殺などありはしない。
ここにいる何應欣将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを、
記録してあるはずです。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と言いながら、
涙しつつ田中氏の手を二度三度握り締めたという。
南京は中華民国の首都であり、蒋介石は同国の総統であった。
一国の最高責任者が明言するのであるから、
その言に耳を傾けるべきであろう。
「騙される日本人」 PHP刊より
「南京大虐殺」はなかった 1/4
2010-05-04 12:00:48
テーマ:歴史 南京
私は評論家でも歴史学者でもございませんし、
もちろん右翼というような者でもありません。
ただ南京攻略に参加した一人の軍人です。
昭和12年7月蘆溝橋事件勃発後、9月に第16師団(京都)に動員下令、
私は歩兵第20連隊(福知山)中隊長として出征し最初は北支に上陸、
次いで師団は11月17日上海付近に上陸、その後連日戦闘追撃を続け、
12月9日に南京の東北地区に進出しました。
日本軍と南京市民
途中で連隊長の入院、大隊長代理戦死の為、
私が大隊長職を代行して大隊を指揮し、南京総攻撃に参加致しました。
南京は、昭和12年12月13日完全に占領されましたが、
私は翌年の1月下旬まで約一ヶ月余り、
南京及びその近辺で警備に任じられておりました。
いわゆる「南京大虐殺」があったと言われているその時、
その場所にいて、当時の南京およびその付近の状況はこの目で見て、
この身体で体験している者であります。
私が今からお話します事は、いわゆる「南京大虐殺」と言われている議論が、
本当はどういうものであるかという事を知って頂き理解して頂いたならば、
一人でも多くの人に真相を語り伝えて、
世間の誤った考えを正して頂きたいと考えております。
当時第一戦において部下と共に戦い、
たくさんの部下を戦死により亡くしました指揮官と致しまして、
「南京大虐殺」というような真に話にもならない暴論がいかにも、
まことしやかに伝えられ、
しかもそれを大部分の日本人が些かも疑いを持たないで信じている状態は、
何としても我慢の出来ないことなのです。
共に戦った戦友、
ことに日本の将来を信じて戦死して行った多くの戦友や部下に対して、
全く根も葉もない濡れ衣が着せられている事は、
私ども生き残った者にとっては、黙っていては申し訳の無いことだと感じており、一人でも多くの人に真実を知って頂きたい、その為に自分が役に立つならば、
どんなに遠くでもどんなに忙しくても出掛けて行って真実を話したい、
また下手な文章であっても書いて、
それを活字にして残しておかねばと願っているのであります。
森王琢氏
平成4年4月、岡山国民文化懇談会にて
「南京大虐殺」はなかった 2/4
2010-05-04 14:00:54
テーマ:歴史 南京
南京大虐殺論は、なぜ起こったか
これだけ大きな戦争をやったのです。
何十万、何百万という軍隊が命懸けで動いているのです。
しかしながら「大虐殺」などという事が、何故言われるようになったのか。
その第一は、戦後に東京裁判において、
検事側の証人の証言により始めて問題とされたのであります。
日本軍を拍手で迎える南京市民
1937年(昭和12年)12月13日、米国パラマウント・ニュース撮影
支那人の他、当時南京城内にいた宣教師、医師、大学の教授等が、
悪意ある証言をし、それが検証もされずに採択された事が、
第一の原因であります。
第二は、東京裁判が進行するに従って、
NHKラジオの「真相はこうだ」という番組でおひれを付けて放送したことです。
ただしこれは、当時占領政策として占領軍がNHKの報道を統制し、
指導をしていた事によるという事は十分に考えられるのであります。
第三は、新聞報道機関が「虐殺、云々」と盛んに書きたてた、
それを一般の人が信じるようになった事であります。
NHKラジオ放送と同様、
統制されていたために新聞等もそのように書いていたのでありましょうが、
報道統制が解けてからはNHKラジオは余りそういう事は言わなくなりましたが、新聞はその後も依然として書き立てていた。
しかも「一流紙」と言われる朝日、毎日、
読売、あるいは有力な地方紙などが態度を改めなかったものですから、
一般の人も信じるようになったわけであります。
「南京大虐殺」はなかった 3/4
2010-05-04 15:00:55
テーマ:歴史 南京
東京裁判における検事側の証言
いわゆる「南京大虐殺」は東京裁判で言われるようになったと申しましたが、
ならばその東京裁判とはどういうものであったか。
東京裁判の全般について詳しく立ち入ることは差し控えますが、
第一には裁判という形を取った戦勝国による日本への復讐であります。
第二には日本の「歴史の断罪」であります。
つまり日本の歴史を始め、日本古来の道徳も、宗教も、家族制度の教育も、
日本にあったものは全て悪いものなんだという決め付けであります。
第三は、日本人に自虐観念を植え付け、
洗脳し、精神的に弱体化しようとしたことであります。
また裁判の運営についても、
(1)偽証罪の無い裁判であった事。
(2)検事側の証言は明瞭な偽証であっても無批判に採択し、
弁護側の証言は多くあるいは抹殺された事。
(3)公正なるべき判事が安易に検事に同調し、
検事と全く同じ立場で運営している事。
(4)弁護人の原爆投下の責任追及、ソ連の不法参戦の追及を、
裁判長が「本裁判に関係無し」として発言を封じた事。
(5)判決は11名の全判事合議によるべきにも関わらず、
一部多数派の偏見的意見のみにより判決を強行しております。
日本軍侵攻後の南京で、爆竹で遊ぶ子供達。
その不当な事は明かなのであります。
「南京大虐殺」に関する検事側証人のデタラメな証言は、
偽証罪が無いのですからことさらに被害を大きく、
いわゆる白髪三千丈的証言がなされ、
弁護人の反対尋問によってそのウソが暴露され、証言した証人や、
それを採用した検事がむしろ恥をかき、失笑をかったという事さえありました。
「南京大虐殺」はなかった 4/4
2010-05-04 18:00:58
テーマ:歴史 南京
(1)アメリカ人牧師マギーの証言は、日本軍の殺人、強盗、強姦、
放火など、聞くに耐えない証言を1日半かけて行いました。
これに対してアメリカ人のブルックス弁護人が反対尋問したところ、
マギーの証言は、実際目撃したのはわずか2件で、ほとんどが噂を伝え聞き、憶測、はなはだしきは自分勝手な想像に過ぎない事が暴露されています。
マギー牧師
(2)その他、当時南京城内に居住していた牧師、
南京大学教授、医師、ジャーナリストなど、
多くは悪意に満ちた証言をしております。
(3)中国人の証言に至っては、全く白髪三千丈という証言であります。
宗教団体の紅卍字会副会長の許伝音という者の証言は、
「自分は4万3千人の死体を運搬して埋葬した」と言い、
また「34万人が殺害され、4千軒の家屋が焼き払われた」とも言っております。
しかし南京城内には、平時は100万人位の人口があったらしいのですが、
大部分は戦禍を避けて避難をしておりまして、
当時は精々15万人位であったろうというのが、割合確実な数字です。
それを34万人殺害されたと言っている。
家を4千軒焼かれたと言いますが、12月13日に占領した南京に、
私は15日に入りそれから約1ヶ月余りいたわけですが、
その間に1件の火事も焼け跡も見ておりません。
南京安全区国際委員会委員、マギー牧師撮影
日本軍入城後、笑顔の南京市民
「哀声地に満ち死体山を築き、我が軍民悉く掃射を受け、
死体揚子江を掩い、流水為に赤し」
中国人は当時の南京をこう表現しておりますが、
流石に中国は文章の国であると感心の他ありません。
揚子江は軍艦が南京からもっと上流まで上って来るのです。
対岸は霞んで見えません。
その流水が「為に赤し」とは、何をか言わんやです。
(4)崇善堂という慈善団体が、
約15万から20万の死体を埋葬したと証言しています。
だいたい戦闘が終わりますと、作戦をした軍隊は一応「戦場掃除」といって、
敵味方の区別なく戦死者の遺体を片付けるのが軍事常識なのです。
我が軍がそういう片付けをしているのに、
そんなに多数の死体を埋葬したということはとても考えられないのであります。
同時に、そんなに多数の死体を埋葬するには、一体どんなに大きな穴を、
あるいはどんなにたくさんの穴を掘れば良いと言うのでしょうか?
考えただけでもウソだとお分かりになるのでしょう。
さらに東京裁判の判決は、全くデタラメ、支離滅裂のものでした。
第一に広田弘毅という方が、
軍事参議官の職にあったということで絞首刑になっております。
軍事参議官というのは軍人の、しかも大将、
元帥の古参の人だけが任じられる職であるのに、
外務大臣であった文官の広田弘毅が、
その職にあったという事で処刑されている。
あるいは陸軍大臣であった荒木貞夫という方は、
なったことのない総理大臣の肩書きで判決をされております。
またインドのパル判事は裁判中から「日本無罪論」を唱えておりましたが、
判決では一切無視されたばかりか、
これを印刷することも頒布する事も禁止されました。
このように東京裁判の不当な事は、
後になって裁判の管轄権者であったマッカーサーでさえ、
解任後帰国して大統領トルーマンに対し、東京裁判は誤りであったと告発し、
又主席検事であったキーナンも東京裁判論告や判決は、
厳しすぎたと言っております。
その他英国国際法権威ハンキー卿、米連邦裁判所ダグラス判事、
米国際法学者マイニア博士を始め、独・英などの国際法学者、
哲学者などもその不当性を厳しく批判をしており、
今やそれは近年国際法学界の共通の認識になっております。
然るに現在の日本の状態はどうですか。
半世紀以上経ってすでに独立国であるにも関わらず、
いわゆる進歩的と称する学者、文人、
評論家、マスコミの多くは依然として「東京裁判史観」
という麻薬に犯されたまま、
「東京裁判は正しかった、南京大虐殺はあったのだ」と言っているのです。
日本軍は、世界史上初の「略奪行為をしない軍隊」
2010-05-03 19:41:08
テーマ:大東亜戦争
中国政府は日中戦争で1200万人が死んだと強弁し、日本を非難している。
ところが、この数字はだんだんと増えている。
1985年には2100万人だと主張し、
それから10年あとの1995年には3500万人だといいだしている。
蒋介石と毛沢東
1200万人であれ2100万人であれ3500万人であれ、
このほとんどは国民党と共産党の内戦によって死んだのである。
当時の日本軍は、蒋介石の軍隊や毛沢東の軍隊とはまったくちがう、
紳士的な軍隊であった
文字どおり「人民解放軍」だったのである。
日本軍と南京市民のふれあい
日本軍はおそらく、世界史上初の「略奪行為をしない軍隊」であり、
これを裏づける記録はあちこちに残っている。
当時の中国の人口は4億で、平均寿命は25歳程度だった。
これは、戦争がなくても中国の人口のうち毎年1600万人が死亡するという、
意味で、日中戦争の15年間を通じて、
戦争がなくても2億4000万人以上が死亡したであろう。
このうち1200万人が日中戦争のせいで死んだというのは、
ただのコメディである。
むしろ毛沢東ではなく日本軍によって大陸が統一されていたならば、
現在の中国人の生活ははるかに向上していただろう。
過去の戦争において日本には正当性があったがドイツにはそれがなかった。
日本は生きる道を探してやむをえない戦争をしたが、
ドイツは他の民族を抹殺して支配者になるために戦争をした。
すなわち日本は名分ある戦争をし、ドイツは名分のない戦争をしたのである。
そしてもっとも重要な違いは、ドイツは民間人3000万人を虐殺したが、
日本は大量虐殺をおこなわなかったという事実だ。
中国が主張している南京事件や731部隊の残虐行為については、
まずは客観的な調査をとおして真実が明らかにされなければならない。
問題は、日本に関するかぎり中国や韓国が主張する資料には、
信憑性がないということだ。かれらは食事をするような感覚で、
必要に応じて歴史を歪曲しているのである。
金完燮 「親日派のための弁明」
1 ■私も伯父からこれからの人に伝えてほしい。
泣きながら、話を聞きました。
当時、伯父は満州で今でいうハローワークの仕事をしていました。日本軍は従軍慰安婦を買うことも禁止されていたし、もし寝るようなことがあれば睡眠薬を飲まされて腕時計など盗むひどい女どもだったし買えば次の日、貴様それでも軍人か?と殴られるぐらいだったと聞いています。横須賀のパンパンのほうがよっポロかわいそうです。
南京大虐殺は中国共産党のやらせで平気で女を犯し、子どもも殺す。それを日本の朝日新聞が品軍がやったことに日本共産党とした。それを日教組が今も当たり前のように授業で教えている。
こんな腐った嘘早く消していただかないと伯父の供養になりません。
あっ えんやこらせー どっこいっせ
うさ子 ええん さぁーーてはー
このー場の皆様へー よーー ほーい ほい
全員 あっ えんやこらせー どっこいせ
うさ子 北は 蝦夷地 の ソーラン節
南は 薩摩 の おはら節
日本全国 あまた 民謡ある中で
大楠公の おひざもと 河内の国の千早村
歌い継がれて 700年
河内音頭と 申しますー
全員 あっ そーらーよい どっこいさ さのよいやーさっさ
うさ子 これより 詠みたるこの唄は
河内十人斬り と申します
明治26年 5月の25日に 起きました
明治時代の大事件
若輩者の わたくし うさ子が
ヘタな音頭も かえりみず
皆々様の お耳を汚しに まいります
お聞き苦しい 唄 なれど
精魂込めて 唄います
わたしゃ 八千八声 の ホトトギス
血を吐くまでも 血を吐くまでーもー つとめましょ
全員 そーらーよい どっこいさ さのよいやーさっさ
(ここより 物語の人物名で書きます)
城戸 熊太郎 (以下 熊太郎)
谷 弥五郎 (以下 弥五郎)
熊太郎 こりゃ おぬい われ 出会い系 してるんか
おぬい あにゃん あんた 一体何の事やー
熊太郎 じゃかましい このハートだらけのメールは何じゃい
おぬい あんたー 何勝手に人のメール読むんや 犯罪やで
熊太郎 不義密通しとる ワレの方が犯罪者じゃぁ
おぬい あほな事言うたらあかんで わたしら 内縁関係 やんか
熊太郎 じゃかましいわ
もうお前には 愛想も こいそ もつきたんじゃぁ
おぬい ふーーん ほんで どないする言うんや
熊太郎 お前なんか ポーーイ じゃぁ
熊太郎の内縁の妻 おぬい は村の顔役の 松永傳次郎の弟 松永寅次郎と 出会い系で知り会って 出会い茶屋 で やっとりまんねんがな
うさ 師匠 明治時代に 出会い系 とかメール有りましたん
うさ子 知らん
ミミ あんたー 何 無責任な事 言うてますのん
れおん 師匠 こらまた ええ加減な事を
でも 〇メー〇 なら あったでしょ
ミミ アホー
おぬい おかん 熊が縁切る言うとるねん
おとら こりゃ 熊 別れるんやったら約束果たさんかい
熊太郎 わし 何か約束 したか
おとら おんどれ クソ熊 忘れたとは言わさんで
熊太郎 わし パーやからのう よう分からんは
おとら お前 おぬい と一緒になる時
わしに 毎月 じぇに くれる約束したやないか
熊太郎 なんじゃい クソババそんな約束信じてたんかい
おとら 別れるんやったら 今までの じぇに 払わんかい
おぬい あんたー 約束 守る良い子供 言うやろ
タダ乗り はあかんで 乗車賃 払いや
熊太郎 わし のりもん なんか乗らへんわい
おとら あほんだら おぬい に何べん乗ったんじゃぁ
熊太郎 え”え”- また何 訳の分からん事 言いまんねん
おとら あほか 獣じゃあるまいし
あんな雄たけび上げたら河内中に聞こえるわい
約束じゃぁ じぇに 払わんかい
熊太郎 また えらい事言いよりまんがな 難儀な話よのう
しかたなく 熊太郎は金を払う事に相成ったが
熊太郎 難儀な話やんけ そんなじぇに あらへんがな
博打打ちで その日暮らしの 熊公にまとまった じぇに なんかおまへんがな
萬田銀次郎 毎度ー 萬田銀行はいつでも融資しまっせ
わしの金は 十イチ でっせ よろしいな
ミミ あんたー そうでのうても貧乏たれの熊でしょ
こんな高い金利 払える訳ありませんやん
はな その時は 腎臓 売ったらええねんがな
れおん こらまた えらいかんたんに言いよりますやん
うさ子 一個の約束 が 二個取られたりしてな
うさ 本人 分かりませんやん
うさ子 そやで 二度と目ェ醒めへんわいな
熊太郎 そうじゃ わし昔 松永傳次郎に金貸しててんがな
ミミ 証文 書かせてますのん
うさ子 そんなもん ある訳ないがな
はな 相手 ヤー公やで 証文あっても払いよるかい
そうやんけのう 清やん
清次 また何で こんなんばっかり振りまんねん
うさ子 ワレやったらしかねんからじゃぁ
清次 こらまた 姉さん キツイ事をおっしゃる
熊太郎 おい 傳次郎 わし昔 お前に銭 貸してたやろ
傳次郎 あー 何で わしが銭 借りなあかんねん
貸したゆう 証拠でもあるんか
熊太郎 河内もん同士 信用貸ししてくれ言うたやろ
傳次郎 アホか お前とうとう頭逝ってもうたんとちゃうけ
れおん 逝く の変換間違っていません
うさ子 おうてるがな ヤー公だけに とっくに頭死んでるがな
うさ でも 相手ヤクザですよ
証文あったところで 金返すなんて ありえませんよ
うさ子 そうじゃぁ それで案の定 熊公は
傳次郎 おい お前等 可愛がったり
熊太郎 あほんだら わしゃ男には興味ないんじゃぁ
若い衆 ボケー ワシ等もオッサンに興味あるかい
オー いてもうたれ
じゃかましいわー あほんだら ボケ カス 死ねー
傳次郎 こりゃぁ 熊 ワレ二度と変なヤカラかますんやないで
熊次郎 今日は この辺で堪忍したろ
うさ これって どこぞの新喜劇で見たような
はな めだか のギャグやんけ
ミミ それはそうと 熊太郎 ボッコボコにやられたんと ちゃいますのん
うさ子 そうじゃ 俗に河内で言う 半殺しの目 じゃぁ
はな 信貴山で売ってた おはぎ も 半殺し 言うで
うさ へー そうだっか
ミミ うささん 最近 大阪弁の使い方上手ですね
うさ へー おおきに おきばりやす
はな きばってええんか よっしゃ任せときや
うさ子 あほんだら お前のキバルは意味が違うわ
弥五郎 兄貴 大丈夫でっか 松永の野郎 なんちゅう事を
熊太郎 あの がきゃぁ 腐れおぬい はええとして
借金まで踏み倒して フクロ にしやがって
弥五郎 兄貴 とりあえず ここで養生しとくんなはれ
熊太郎 すまん 弥五郎 恩にきるで
弥五郎 礼はよろしおま そやけど 傳次郎のガキャァー
兄貴 キッチリ お礼せんとあきまへんで
熊太郎 そうじゃのう 腹の虫が収まらんわのー
弥五郎 わしも 日清戦争 は 台湾 で一度 皇國(みこく)のために
命を捨てたからは 兄貴の為に この命 預けまひょ
わしは 河内の喧嘩鶏 なんじゃー
熊太郎 すまん 弥五郎 おおきに おおきに
うさ子 この二人 復讐のために これから準備するんじゃぁ
うさ ミッション1 の開始なんですね
熊太郎 ほな 死での旅立ち のまえに 大阪 京都 奈良 を見物して行
こうや
弥五郎 丁度 ここに最適な 案内書 がおまんがな
熊太郎 うさ子のブログかい こら ええがな
弥五郎 これ見て お寺でも周りまひょ
うさ子 やっぱり いつの時代にも ええもんはええんじゃぁ
熊太郎 武器はいるはのー 日本刀に仕込み杖 猟銃もいるのう
弥五郎 そんなん うさ子に 頼んだらよろしおまんがな
もっと ええもん持ってまっせ
熊太郎 あいつの飛び道具 半端やないらしいやんけ5y8
弥五郎 日清戦争 で使いたかったのう 一発で清国 ぶっ飛んだやろのう
うさ子 おおそうじゃ 支那 世界地図から消えて無くなるんじゃぁ
うさ 師匠 ダメですって いくらお友達が増えたからって
はな しまいに どこぞの団体からクレーム来るで
うさ子 来るなら来んかい 思う壷 じゃぁ
ミミ こんなん言うてたら絶対きませんよ
れおん 確かに 北海道 ムチャクチャでしたもんね
はな 閻魔大王 も嫌がるはのう
まずは 前半の お話はここまで 続きは後半 なんじゃぁ
うさ子 皆の衆 楽しみに待っとれよ うさうさ
全員 えんやこらせー どっこいせ
朝やん ええん さーーてはー
一座のみなさまへー よーほいほい
全員 えんやこらせー どっこいせ
朝やん ちょいとー 出ました わたくしはー
おみかけ 通りの若輩でー
顔がまずくで ぶさいくで
おまけに 頭もパー助で
声もダミ声 ええとこなしじゃぁ
そやけど 誰にも絶対負けへんでー
楠公さんへの 忠誠心
河内男のド根性
気合い を入れて 歌いましょ
全員 そーらーよい どっこいささのよいやーさっさ
うさ 師匠 お疲れ様でした
うさ子 ゼーゼーゼー あかん 年寄り にこのネタこたえるわい
はな おばはん まだ半分やで 命 持つんか
菊やん わし等 音頭とりは 櫓の上で死んだら本望やんけのう
うさ子 とりあえず 栄養剤くれ そこの白い粉や
ミミ これって 覚醒剤ちゃいますのん
うさ ちょっと うさにも 血管注射をば
ミミ あんたー 師弟でアホな事ばっかりして
れおん 軽率の世話になっても知りませんよ
うさ子 うさぎ に人間の法が通じるかい
うさ どころか 「私 日本語解りません」 で何しても不起訴でっせ
それでは 皆様 河内十人斬りの後半 ごゆっくりお楽しみを
熊太郎 弥五郎 ほな やろか
弥五郎 今晩は ますます雨きつなりまっしゃろ
熊太郎 弥五郎 命 預けてくれよ
弥五郎 どうせ 台湾で捨てた命じゃぁ
うさ子 大雨降りたる 嵐の深夜 猟銃抱えて 刀を差して
松永一家に殴りこみ
まずは にっくき 傳次郎
ついでに 妻と子供も二人
おぬい と おとら も手にかけて
熊太郎 さんざんコケにしやがった おぬい と おとら
先に冥土へ送ってやろうぞ
こりゃぁ 強欲ババアに天誅じゃぁ
不浄の おぬい 地獄へ落ちるんじゃぁ
弥五郎 お見事 いざ松島一家へ向かおうぞ
熊太郎 傳次郎 よくもコケにしてくれたのう
死してあの世で おぬい と密通しやがれ
傳次郎 ま ま 待ってくれ 金なら払う
密通したんは 寅次郎やないか
命だけは 助けてくれ 後生じゃぁ
熊太郎 じゃかましい 往生際の悪いやっちゃのう
地獄の閻魔さんに よろしゅう言うとけや
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
弥五郎 兄貴 お見事
熊太郎 松永熊次郎 お前もじゃぁ 行くでー 弥五郎
うさ子 見事 熊次郎と妻 子供3人も冥土へ送るが
熊太郎 にっくき 松永寅次郎はいずこへ
寅次郎は 宇治 へと出ていたのであった
弥五郎 ほな 最後の仕上げといこうかいの
熊太郎 お前等 みんな灰となるんじゃぁ
乗り込んだ家に火薬を仕込み灯油をまいて放火をしたのであった
熊太郎 弥五郎 金剛山へ行くでー
弥五郎 これで ええんじゃぁ 何もかも済んだんじゃぁ
さて 日は変わって 26日
富田林の軽率に一報が 入るや
軽率 馬をこれへもてい! 金剛山へ向かうぞよ
大阪府警の応援も駆けつけたが
二人は なかなか捕まらず
食料を強奪されたとの報告ばかりじゃぁ
しかし 事件発生から2週間後
金剛山の山中にて 変わり果てた姿になりたもう
見事 自害したるる 熊太郎 と 弥五郎
女と金と仁義が絡みし この事件
男の意気地を 死をもって幕引きしたり
熊太郎 弥五郎 の 男意気 天晴れ なり
うさ子 これぞ 明治時代の大事件
河内十人斬りでございます
暑い中を 皆々様方
お聞き苦しい うさ子の唄を
最後の節まで 御静聴
いただき 感謝いたします
皆々様の 健康と幸をお祈り申し上げ
音頭人生 ひと区切り
ひとまず お休みいたします
それでは みなさま さよーおーなら
全員 そーらーよい どっこいさ さのよいやーさっさ
うさ子 おおきに おおきに ありがとー
はな おばはん ご苦労さん
れおん 師匠 お疲れ様でした
うさ 師匠 疲労回復には これでっせ
とりあえず シャブ 打っときまひょ
ミミ あんたらー 何べん言うたら分かりますのん
艶奴 シャブ の一本や二本 どう言う事 おまへんで
清次 ありゃぁ 姉さん も 好きもんでんなぁ
朝やん 清次 おんどりゃぁ ワレまだ松島でそんな事しとるんか
菊やん 清やん おまん も好きやのう
清次 親分 堪忍しておくんなはれ かなんな
河内音頭は音頭人生 ひと区切り ゆえ
これにて さよーなら
それじゃあまた逢えたらいいね
「南京に虐殺など無かった」 当事者、蒋介石の証言
2010-05-02 20:40:00
テーマ:歴史 南京
蒋介石の謝罪
「興亜観音を守る会」の会長であり、
「南京事件」の研究家として知られている田中正明氏は、
1960年、岸内閣の時に締結された日米安全保障条約を積極的に支援し、
岸首相のいわば私的ブレーンのような役割を担った方である。
その田中氏が岸首相から、
「これからは台湾がアジアの平和にとって大変重要な地位になる。
これから台湾に行って蒋介石とも会い、台湾の軍事基地も見学して、
将来のアジアの平和について考えてほしい。
蒋介石氏には私から紹介状を書いておく」と言われ、台湾を訪問したが、
紹介状のおかげで、準国賓級の待遇で迎えられた。
そして最後の蒋介石総統との会見の席上、
何應欣将軍を初め多くの政府要人が同席している中で、
蒋介石総統が悔恨の涙を流したという。
蒋介石
一週間後、
台北の旧総督府で蒋介石その他の要人とのお別れの宴が開かれた時だ。
最後に田中氏が、蒋介石総統の前に進み出て、
御礼の挨拶をした後、
「私は昭和16年(1936)2月に松井石根閣下と二人で、
(蒋介石)閣下にお目にかかったことがございます」と告げると蒋介石総統は、
「松井石根」という名を耳にした瞬間、顔色がさっと変わり、
目を真っ赤にし、涙ぐんで「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」。
手が震え、涙で目を潤ませてこう言うのです。
松井石根閣下
「南京に大虐殺などありはしない。
ここにいる何應欣将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを、
記録してあるはずです。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と言いながら、
涙しつつ田中氏の手を二度三度握り締めたという。
南京は中華民国の首都であり、蒋介石は同国の総統であった。
一国の最高責任者が明言するのであるから、
その言に耳を傾けるべきであろう。
「騙される日本人」 PHP刊より
「南京大虐殺」はなかった 1/4
2010-05-04 12:00:48
テーマ:歴史 南京
私は評論家でも歴史学者でもございませんし、
もちろん右翼というような者でもありません。
ただ南京攻略に参加した一人の軍人です。
昭和12年7月蘆溝橋事件勃発後、9月に第16師団(京都)に動員下令、
私は歩兵第20連隊(福知山)中隊長として出征し最初は北支に上陸、
次いで師団は11月17日上海付近に上陸、その後連日戦闘追撃を続け、
12月9日に南京の東北地区に進出しました。
日本軍と南京市民
途中で連隊長の入院、大隊長代理戦死の為、
私が大隊長職を代行して大隊を指揮し、南京総攻撃に参加致しました。
南京は、昭和12年12月13日完全に占領されましたが、
私は翌年の1月下旬まで約一ヶ月余り、
南京及びその近辺で警備に任じられておりました。
いわゆる「南京大虐殺」があったと言われているその時、
その場所にいて、当時の南京およびその付近の状況はこの目で見て、
この身体で体験している者であります。
私が今からお話します事は、いわゆる「南京大虐殺」と言われている議論が、
本当はどういうものであるかという事を知って頂き理解して頂いたならば、
一人でも多くの人に真相を語り伝えて、
世間の誤った考えを正して頂きたいと考えております。
当時第一戦において部下と共に戦い、
たくさんの部下を戦死により亡くしました指揮官と致しまして、
「南京大虐殺」というような真に話にもならない暴論がいかにも、
まことしやかに伝えられ、
しかもそれを大部分の日本人が些かも疑いを持たないで信じている状態は、
何としても我慢の出来ないことなのです。
共に戦った戦友、
ことに日本の将来を信じて戦死して行った多くの戦友や部下に対して、
全く根も葉もない濡れ衣が着せられている事は、
私ども生き残った者にとっては、黙っていては申し訳の無いことだと感じており、一人でも多くの人に真実を知って頂きたい、その為に自分が役に立つならば、
どんなに遠くでもどんなに忙しくても出掛けて行って真実を話したい、
また下手な文章であっても書いて、
それを活字にして残しておかねばと願っているのであります。
森王琢氏
平成4年4月、岡山国民文化懇談会にて
「南京大虐殺」はなかった 2/4
2010-05-04 14:00:54
テーマ:歴史 南京
南京大虐殺論は、なぜ起こったか
これだけ大きな戦争をやったのです。
何十万、何百万という軍隊が命懸けで動いているのです。
しかしながら「大虐殺」などという事が、何故言われるようになったのか。
その第一は、戦後に東京裁判において、
検事側の証人の証言により始めて問題とされたのであります。
日本軍を拍手で迎える南京市民
1937年(昭和12年)12月13日、米国パラマウント・ニュース撮影
支那人の他、当時南京城内にいた宣教師、医師、大学の教授等が、
悪意ある証言をし、それが検証もされずに採択された事が、
第一の原因であります。
第二は、東京裁判が進行するに従って、
NHKラジオの「真相はこうだ」という番組でおひれを付けて放送したことです。
ただしこれは、当時占領政策として占領軍がNHKの報道を統制し、
指導をしていた事によるという事は十分に考えられるのであります。
第三は、新聞報道機関が「虐殺、云々」と盛んに書きたてた、
それを一般の人が信じるようになった事であります。
NHKラジオ放送と同様、
統制されていたために新聞等もそのように書いていたのでありましょうが、
報道統制が解けてからはNHKラジオは余りそういう事は言わなくなりましたが、新聞はその後も依然として書き立てていた。
しかも「一流紙」と言われる朝日、毎日、
読売、あるいは有力な地方紙などが態度を改めなかったものですから、
一般の人も信じるようになったわけであります。
「南京大虐殺」はなかった 3/4
2010-05-04 15:00:55
テーマ:歴史 南京
東京裁判における検事側の証言
いわゆる「南京大虐殺」は東京裁判で言われるようになったと申しましたが、
ならばその東京裁判とはどういうものであったか。
東京裁判の全般について詳しく立ち入ることは差し控えますが、
第一には裁判という形を取った戦勝国による日本への復讐であります。
第二には日本の「歴史の断罪」であります。
つまり日本の歴史を始め、日本古来の道徳も、宗教も、家族制度の教育も、
日本にあったものは全て悪いものなんだという決め付けであります。
第三は、日本人に自虐観念を植え付け、
洗脳し、精神的に弱体化しようとしたことであります。
また裁判の運営についても、
(1)偽証罪の無い裁判であった事。
(2)検事側の証言は明瞭な偽証であっても無批判に採択し、
弁護側の証言は多くあるいは抹殺された事。
(3)公正なるべき判事が安易に検事に同調し、
検事と全く同じ立場で運営している事。
(4)弁護人の原爆投下の責任追及、ソ連の不法参戦の追及を、
裁判長が「本裁判に関係無し」として発言を封じた事。
(5)判決は11名の全判事合議によるべきにも関わらず、
一部多数派の偏見的意見のみにより判決を強行しております。
日本軍侵攻後の南京で、爆竹で遊ぶ子供達。
その不当な事は明かなのであります。
「南京大虐殺」に関する検事側証人のデタラメな証言は、
偽証罪が無いのですからことさらに被害を大きく、
いわゆる白髪三千丈的証言がなされ、
弁護人の反対尋問によってそのウソが暴露され、証言した証人や、
それを採用した検事がむしろ恥をかき、失笑をかったという事さえありました。
「南京大虐殺」はなかった 4/4
2010-05-04 18:00:58
テーマ:歴史 南京
(1)アメリカ人牧師マギーの証言は、日本軍の殺人、強盗、強姦、
放火など、聞くに耐えない証言を1日半かけて行いました。
これに対してアメリカ人のブルックス弁護人が反対尋問したところ、
マギーの証言は、実際目撃したのはわずか2件で、ほとんどが噂を伝え聞き、憶測、はなはだしきは自分勝手な想像に過ぎない事が暴露されています。
マギー牧師
(2)その他、当時南京城内に居住していた牧師、
南京大学教授、医師、ジャーナリストなど、
多くは悪意に満ちた証言をしております。
(3)中国人の証言に至っては、全く白髪三千丈という証言であります。
宗教団体の紅卍字会副会長の許伝音という者の証言は、
「自分は4万3千人の死体を運搬して埋葬した」と言い、
また「34万人が殺害され、4千軒の家屋が焼き払われた」とも言っております。
しかし南京城内には、平時は100万人位の人口があったらしいのですが、
大部分は戦禍を避けて避難をしておりまして、
当時は精々15万人位であったろうというのが、割合確実な数字です。
それを34万人殺害されたと言っている。
家を4千軒焼かれたと言いますが、12月13日に占領した南京に、
私は15日に入りそれから約1ヶ月余りいたわけですが、
その間に1件の火事も焼け跡も見ておりません。
南京安全区国際委員会委員、マギー牧師撮影
日本軍入城後、笑顔の南京市民
「哀声地に満ち死体山を築き、我が軍民悉く掃射を受け、
死体揚子江を掩い、流水為に赤し」
中国人は当時の南京をこう表現しておりますが、
流石に中国は文章の国であると感心の他ありません。
揚子江は軍艦が南京からもっと上流まで上って来るのです。
対岸は霞んで見えません。
その流水が「為に赤し」とは、何をか言わんやです。
(4)崇善堂という慈善団体が、
約15万から20万の死体を埋葬したと証言しています。
だいたい戦闘が終わりますと、作戦をした軍隊は一応「戦場掃除」といって、
敵味方の区別なく戦死者の遺体を片付けるのが軍事常識なのです。
我が軍がそういう片付けをしているのに、
そんなに多数の死体を埋葬したということはとても考えられないのであります。
同時に、そんなに多数の死体を埋葬するには、一体どんなに大きな穴を、
あるいはどんなにたくさんの穴を掘れば良いと言うのでしょうか?
考えただけでもウソだとお分かりになるのでしょう。
さらに東京裁判の判決は、全くデタラメ、支離滅裂のものでした。
第一に広田弘毅という方が、
軍事参議官の職にあったということで絞首刑になっております。
軍事参議官というのは軍人の、しかも大将、
元帥の古参の人だけが任じられる職であるのに、
外務大臣であった文官の広田弘毅が、
その職にあったという事で処刑されている。
あるいは陸軍大臣であった荒木貞夫という方は、
なったことのない総理大臣の肩書きで判決をされております。
またインドのパル判事は裁判中から「日本無罪論」を唱えておりましたが、
判決では一切無視されたばかりか、
これを印刷することも頒布する事も禁止されました。
このように東京裁判の不当な事は、
後になって裁判の管轄権者であったマッカーサーでさえ、
解任後帰国して大統領トルーマンに対し、東京裁判は誤りであったと告発し、
又主席検事であったキーナンも東京裁判論告や判決は、
厳しすぎたと言っております。
その他英国国際法権威ハンキー卿、米連邦裁判所ダグラス判事、
米国際法学者マイニア博士を始め、独・英などの国際法学者、
哲学者などもその不当性を厳しく批判をしており、
今やそれは近年国際法学界の共通の認識になっております。
然るに現在の日本の状態はどうですか。
半世紀以上経ってすでに独立国であるにも関わらず、
いわゆる進歩的と称する学者、文人、
評論家、マスコミの多くは依然として「東京裁判史観」
という麻薬に犯されたまま、
「東京裁判は正しかった、南京大虐殺はあったのだ」と言っているのです。
日本軍は、世界史上初の「略奪行為をしない軍隊」
2010-05-03 19:41:08
テーマ:大東亜戦争
中国政府は日中戦争で1200万人が死んだと強弁し、日本を非難している。
ところが、この数字はだんだんと増えている。
1985年には2100万人だと主張し、
それから10年あとの1995年には3500万人だといいだしている。
蒋介石と毛沢東
1200万人であれ2100万人であれ3500万人であれ、
このほとんどは国民党と共産党の内戦によって死んだのである。
当時の日本軍は、蒋介石の軍隊や毛沢東の軍隊とはまったくちがう、
紳士的な軍隊であった
文字どおり「人民解放軍」だったのである。
日本軍と南京市民のふれあい
日本軍はおそらく、世界史上初の「略奪行為をしない軍隊」であり、
これを裏づける記録はあちこちに残っている。
当時の中国の人口は4億で、平均寿命は25歳程度だった。
これは、戦争がなくても中国の人口のうち毎年1600万人が死亡するという、
意味で、日中戦争の15年間を通じて、
戦争がなくても2億4000万人以上が死亡したであろう。
このうち1200万人が日中戦争のせいで死んだというのは、
ただのコメディである。
むしろ毛沢東ではなく日本軍によって大陸が統一されていたならば、
現在の中国人の生活ははるかに向上していただろう。
過去の戦争において日本には正当性があったがドイツにはそれがなかった。
日本は生きる道を探してやむをえない戦争をしたが、
ドイツは他の民族を抹殺して支配者になるために戦争をした。
すなわち日本は名分ある戦争をし、ドイツは名分のない戦争をしたのである。
そしてもっとも重要な違いは、ドイツは民間人3000万人を虐殺したが、
日本は大量虐殺をおこなわなかったという事実だ。
中国が主張している南京事件や731部隊の残虐行為については、
まずは客観的な調査をとおして真実が明らかにされなければならない。
問題は、日本に関するかぎり中国や韓国が主張する資料には、
信憑性がないということだ。かれらは食事をするような感覚で、
必要に応じて歴史を歪曲しているのである。
金完燮 「親日派のための弁明」
1 ■私も伯父からこれからの人に伝えてほしい。
泣きながら、話を聞きました。
当時、伯父は満州で今でいうハローワークの仕事をしていました。日本軍は従軍慰安婦を買うことも禁止されていたし、もし寝るようなことがあれば睡眠薬を飲まされて腕時計など盗むひどい女どもだったし買えば次の日、貴様それでも軍人か?と殴られるぐらいだったと聞いています。横須賀のパンパンのほうがよっポロかわいそうです。
南京大虐殺は中国共産党のやらせで平気で女を犯し、子どもも殺す。それを日本の朝日新聞が品軍がやったことに日本共産党とした。それを日教組が今も当たり前のように授業で教えている。
こんな腐った嘘早く消していただかないと伯父の供養になりません。





































