『思い通りにならないことに耐えられない』子どもたち | うさこのひとりごと

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保健室の先生やってます

気がつけば、ずいぶん更新がご無沙汰していた。

もちろん仕事は全力で頑張っているし
目の前の生徒と、真剣に向き合っている。

でもその一方で、私1人ではどうにもならない
生きる力を失っている子どもたちと日々関わる中で、
大きな無力感も感じていたし、
それをどう表現していいのかもわからなかったので、
ブログを書いていなかった。

そんな中、私の思っていたことを書いてあるネット記事をみつけた。以下抜粋

https://president.jp/articles/-/79195?page=1


なぜ不登校になってしまう子どもが増えているのか。スクールカウンセラーの藪下遊さんは「最近の子どもは『思い通りにならないことに耐えられない』という特徴を持っている。親や周囲の人から叱られた経験がないからか、『思い通りになるのが当然』と考えるようになってしまっている。

小学校四年生の男子。同級生とのやり取りで自分の要求が通らない状況や否定的な場面で「いじめられた」と主張する。例えば、自分がやりたい遊びができないとき、ドッジボールで当てられたときなどにそういった発言が見られる。親は男子がいじめられていると考え、対応や謝罪を学校に要求する。

「思い通りにならない場面」は、学校をはじめとした社会的な場で活動する上では避けられないものですが、近年、増加している不登校や学校で不適応を示す子どもたちの中には、こうした状況に対する拒否感が中核になっている場合があるのです。
どうして彼らはここまで「思い通りにならない場面」に対して不快を覚えてしまうのでしょうか?

現代の世の中には「自由にさせてあげた方が良い」「叱るのは可哀想かわいそう」という風潮があることは承知していますが、適切に叱られる、止められる、諫められることによってもたらされる「子どものこころの成熟」も理解しておいてほしいと切に願います。

子どもが社会的な存在として成熟していくためには、こうした「世界からの押し返し」を経て、現実に合わせて自分を調整するという経験が絶対に必要なのです。

親が子どもの要求にすべて完璧に応えられてしまうことがあってしまうと、子どもにはいつまでたっても「自分の欲求」と「環境が与えてくれること」の差によっておこる欲求不満に耐える力が身につきません。

「外の世界に合わせて自分を調整する」という体験は、子どもにとって非常に不快なものです。それまでは泣くなどの行為を通して、親に「環境を変えてもらった」という経験が中心でしたが、環境を変えるということが難しい状況や、子どもが環境に合わせなくてはならない状況が増えるのですから、その不快は自然な反応と言えます。

こうした状況で生じる子どもの不快感を「関係性の中で納めていく」という関わりが必須であるということです。「思い通りにならない場面」で不適応を示している子どもの親と接していると、こうした子どもの不快感を「親の関わり方の失敗」と考えたり「不快にさせてはならない」と捉えたりしている人が非常に多いと感じます。

大切なのは、子どもの不快感が生じないように環境を調整するのではなく、「思い通りにならない環境」に出会った時の不快感が親子関係の中で受けとめられ、なだめられながら納めていくことです。

学校は多くの子ども達にとって「思い通りにならない場所」です。自分たちの行動は校則で制限されますし、同年代の子ども達の中で好き勝手ばかりはできませんし、定められた時間に定められた学習をすることになります。
こうした学校の在り方こそが不登校の原因であると考える人もいるようですが、まだまだ幼い子どもたちは、学校という「思い通りにならない場所」での体験を通して、不快感を納め、環境との調和を経験していくという面も忘れてはなりません。子どもが「社会的な存在として成長する」ということを目指すのであれば、家庭や学校で経験する「思い通りにならない体験」の価値も理解しておく必要があります。

こうした「思い通りにならないことへの不快」は外と内の両方に向けられ得るということです。

外に向かう場合は、「こんなうるさい場所には居たくない」「担任が言うことを聞いてくれない」などのように外界が思い通りにならないことへの不快として表現されます。内に向かう場合は、「自分自身が思い描いた姿でいられないことが不快」という形で表出します。理想通りの姿でいられないことが大きな不快と感じられ、そんな不快が生じる可能性のある状況からの回避という結果になるのです。

一部の不登校をはじめとした学校での不適応は、こうした「世界からの押し返し」が少ないために生じている可能性があるのです。

子どもが不快だからといって、不快が生じるあらゆる状況を排除・操作してしまえば、成長に欠かせないような出来事を「要らない不快」と考えて回避してしまい、せっかくの成長の機会が失われることになってしまいます。
また、社会の中で自分が失敗したことを指摘されて「パワハラ」と言ったり、相手が思った通りにしてくれないだけで「あの人はおかしい」と言ったりしていれば、当然、成長することも、自分以外の人が「思い通りにはならない」という当たり前の感覚が身につくことも起こらなくなります。

「世界からの押し返し」とは、こういうネガティブな面もきちんと子どもに示していきましょう、そして「関係性の中で不快感を納める」とはネガティブな面がある子どもであっても「そういうあなたが大切だ」「そんなあなたと生きていく覚悟がある」ということを伝えていきましょう、ということなんです。

 同じく「子どもを不快にすることへの拒否感」と絡んできそうな社会の風潮に「やりたいことを大切にする」というものがあります。一見すると「やりたいこと」で生きていくのは素晴らしいことのように思います。ですがこの風潮も、「やりたくないことはしなくていい」という形に変質してしまうリスクがあることを忘れてはいけません。

成長に必要な「不快に耐える肺活量」を持つことで子どもたちが「昨日の自分」よりも成熟すること、できないことを共有して「どんな自分でも、これが自分だ」と思えること、知らないことやできないことに取り組むことで「可能の範囲」を増やすことなどはすべて、子どもが社会的に成熟する上で欠かせないことのはずです。

 しかし社会では、子どもを不快にすることを避け、できない自分を棚上げし、「やりたくないことはしない」というマインドが育つような風潮が中心になりつつあります。

本稿で紹介したような子どもたちの不適応の増加は、こうした社会の風潮が学校や家庭にまで降りてきていることによって生じたと私は推測しています。

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ちなみに私は自分の子には、「学校に行く目的は、嫌いな人苦手な人と距離をとって付き合う方法と、嫌なことでも我慢してやることを学ぶところ」と言ってきた。

生徒にも、どんなに嫌いな人でも、おはよーって言えるようになることが、大人になることだと言ってる。
でも今は「本人がいじめと思ったらいじめ」なのだ。


では、不登校や不適応が増えたのは、今の保護者の育て方が悪いのか、といえばそうではなく、20年くらい前にはすでに、家族関係が変わっていたのだ。

最近読んだのがhttps://amzn.asia/d/164IqxO



これは2007年に発行されたhttps://amzn.asia/d/i3bQeiU


のその後を追跡した話で、当時「子供の嫌いなものは食卓に出さない」「子供の機嫌が悪くなるから、嫌いなものでも食べなさいと言わない」という言葉に象徴されるように、子供とぶつかり合うことが面倒で、子どもが嫌がるものは食べさせないという話が載っていた。

レビューは賛否両論だったけど、現場にいた私には納得のものだったから、その後のことが気になって読んだけど、これを読むと、若者が結婚しない理由もわかる気がした。
今の若者の親世代は、世間体があったから一応結婚して子ども生んだけど、子どもより自分の時間を大事にしたいと思う人たちがすでにいて、個人の自由や意思を大切にするという名の下に、家族がシェアハウスみたいになってたんだなって。そしてそれは自分自身にも当てはまるところもあった。

そういう「家族」の中で育った人たちが子育てをするわけだから、できない、わからないのは当たり前。

ネットには、子どもの意思を尊重しましょう
ほめて育てましょう

その一方で、子どもが不適切なことをすれば
親のせいだと叩かれるわけだから、
保護者も大変。

今、子どもたちにソーシャルスキルが必要と言われてるけど、本当は保護者にこそ、必要なのかもしれない。


『思い通りにならないことに耐えられない』子どもたちがどうするかといえば、不登校だけではなく「病気」になる。

精神科に行きたい
自分は、うつ病だと言ってほしい
そうすれば、学校に行かない、嫌なことをやらなくて済むから。

そんな言葉を「子ども」から聞くようになるなんて
数年前まで、考えたこともなかった。