地震保険は査定が厳しく失望した 3・11 私の記憶 | 長男は自閉症・オヤジの日記、音楽好きでバンドもやりました

長男は自閉症・オヤジの日記、音楽好きでバンドもやりました

自閉症の長男との暮らし、その思いや日常の出来事を日記として書いてます。

 

 

♪花は咲く

 

 

 震災2か月後、私の小、中学校の同級生の自宅付近の写真。様子を見に行ってくれた私の事務所スタッフが無言で私に差し出した。自営業だった彼と奥さんとは12年前に飲みに行ったのが最後で今も消息がつかめない。噂では無事だったらしいが・・・

 

 

 私の仕事場の仙台空港の近くのイオンモールへ向かう道路。何度も立ち寄った所。ふざけんなよ!と思わず怒鳴ってしまった。

 

 

 

 仙台空港近く。仕事で親しくなった高齢の下請けさんが住んでいた地域。貞山堀のシジミを頂いたり、芋煮会などでお世話になった人たちが津波に流された。当時の状況では葬式を出すこともできず、被害のなかった山形県東根市に搬送され、荼毘に。

 

 仙台市沿岸部(テレビのニュースより)

 停電で、そもそもテレビも壊れて、当時はこのニュース知らなかった。ラジオでは聴いていたが、まさか・・・従兄(叔母の次男)家族が購入した建売住宅に入居した地域で、数日後に知ってショックだった。床上まで津波が来たので急いで体育館に避難し、家族全員が無事だと連絡が入り安堵して、お互いに泣いた。

 

沿岸部の叔父(母の兄)は津波で犠牲に。叔父の家は基礎の土台だけ残っていた。食料が全く手に入らず、空腹と寒さに耐えた。

 

 私の近所の家。津波被害ではないし、玄関の柱がしっかりしている、ということで半壊査定。半壊査定では支援金が僅かなので、せめて大規模半壊査定に、と区役所に異議申し立てをしたが却下。査定は厳しく、復興には厳しい道のりだと感じた。

 

 私は家の修理を工事業者に依頼をすると、半壊査定は助成金がなく二重ローンのリスク有りで、支払いを危惧し工事代金は3日以内に現金一括払いが条件。業者は強気だった。加入していた地震保険は、広範囲で未曾有の大災害で全額支払いは厳しい、保険会社存続のため「見舞金」としての支給ということで、全額は出なかった。

 

私の生命保険の解約金で業者に修理を依頼。3か月後に来てくれた。さあ、復興めざして頑張ろう!そんな気持ちだったが・・・

 

この工事の支払いを終えると、妻の生命保険を解約して現金を調達して次の工事を依頼。仕事が多忙なのと人手不足もあってか、業者は相変わらず強気だった。

 

 そして風呂場の工事が完了したのは11月。3月から8か月間も風呂なしの生活だった。その間は、何回も鍋とやかんにお湯を沸かし、バケツや衣装ケースに移して、足湯、体を拭く程度だが、それを風呂代わりにした。石油ストーブが役に立った。

 

 近くのスーパー銭湯は3時間並んで整理券をもらい、2時間後に利用可とのことだったが、利用した友人から、大混雑で、お湯も少なくなって、そのお湯も汚れているので行かない方がいい、とアドバイスされた。

 

 

 私も土木仕事に精を出し、現金を用意ができたのは、その1年後。依頼は駐車場の壊れたカーポートを解体し基礎工事から。

 自力での頑張り過ぎか、将来への不安なのか、夜も眠れず・・精神科に行くと鬱(うつ)発症で、カウンセリングと抗うつ剤の処方。さらに体調を崩して入院、手術。これ以上どう頑張ればいいんだ、誰か助けて欲しい!と弱音も出た。先のことがあるので、ほどほどに頑張ればいいと居直ったが、声を上げても支援なしの毎日は孤独で辛く、これが「うつ」と自覚した。

 

 私の事務所近辺の歩道。こんなデコボコ道になっても、真面目に上を向いて歩けば何とかなるはず、と自分を納得させた。

 

 この歌に励まされたが、歌詞の♪一人ぼっちの夜、が自主避難がゆえに義援金や支援物資とは無縁で、孤独を感じた我が身と重なって切なくなって、一時、聴くのをやめた。

 

 教訓として、地震保険は内容を吟味し共済組合などとの複数の社に加入すべきだった。契約書をよく読んで家財保険も必要だ。

地震保険では、壁の亀裂、壁紙の破れ、よじれは査定に入らず一部損査定で10万円程度の支給。家の内部の被害は、ほとんど保険の適用外で、この金額では壁の亀裂や壁紙の張替はできない。風呂場の壁の亀裂は修理では済まず、風呂場を解体して自腹で建替えた。

 

 これは我が家だけの話ではないし、満足な額ではないが、保険の支払いもあったし、仕方ないか・・・誰も悪くはない、被害者意識は持つまい、そう思うしかないと思った。