仙台のオヤジの日記、ほっこりと。長男は自閉症。

仙台のオヤジの日記、ほっこりと。長男は自閉症。

 妻と長男と三人暮らし。日々の思いを日記として書いてます。音楽、園芸、旅行、鉄道、寺社、ラーメンが好き。バンド、格闘技もやってました。ペットはインコとメダカ。

 

♪ドック・オブ・ザ・ベイ(The Dock of the Bay)

ドックは犬ではなく港のデッキのことです。

 

 

●私は、およそ30年前に自閉症の長男の将来を見据え、知的障がい者支援の事業所を立ち上げた。周囲から「福祉関連の運営は厳しい、助成金や公的支援のあるNPO法人がいい」とアドバイスを受けていたが、私の「こだわり」で会社法人として登記した。
 
 会社法人は営利を目的とする法人なので、当然だが、どこからの支援もない。逆に、福祉活動ということでボランティア活動と他人様から当てにされる有様で、必然的に持ち出しも多かった。覚悟はしていたが思った以上に運営が厳しく、見通しの甘さを痛感した。
 
 資金繰りの対策で、今で言う「便利屋さん」のようだが、話があれば何でも引き受け、なんとか窮地をしのいた。それで多種多種の仕事に携わったことで人間関係や視野も知識も広がった。私は、良い経験をしてるな、と愛妻弁当を広げながら一人でそう思った。
 
お弁当 きょうの愛妻弁当
 
 時には「お宅は何屋さん?隙間仕事屋さん?」などと見下したように揶揄もされたが、そんな輩にはまともに答える必要がないので、無視をした。それで嫌われもしたが・・・
 
●そんな中、土木建築関連の仕事を受けた現場では、私は臨時作業員、そんな扱いだったが、打ち合わせには参加ができた。
 
 その打ち合わせで行き詰った感があったので、余計な口出しですが、と遠慮がちに、過去にスキルアップで学んだ荷重算出、支保工の検討手順など提案をすると、あのオヤジ何者だ、と驚かれた。更に足場の積算、掛けバラシ、経年仮設材、耐用年数など補足説明すると、私が労働安全管理士の有資格者と知り、私への待遇が大きく変わった。
 
 それからの私は土木建設関連をメインの仕事に位置付けた。その仕事のお陰で少し余裕ができ、事業所に障がい者支援の一環として「駄菓子屋コーナー」を併設し、実習生を受け入れるなどして順調に事が運ぶようになった。
 
●そして駄菓子屋コーナーで、知的の娘さんと母親が一緒に作ったパンを販売、昼で完売。よっしゃ!あのお母さんの指導でパン工房を併設しよう、と事業所を移転することにした。
 
 移転先は下見をした空き店舗で話を進めていたが、私は体調を崩し長期入院で手術。東日本大震災で役所に支援申請したが、津波、原発被害でもないので却下。八方ふさがりだった。結局、計画は白紙撤回。銀行借入金がなかったのが幸いだったが、私は運が悪い。それとも、私のこれまでの人生で、何か悪いことをしたのだろうか、と真剣に考えた。
 
🌸仙台の 庭の桜、まだ頑張ってます。
 
「桜散る、残った桜も散る桜」確かに、その通りだ。
残った桜も、いずれは散る桜だが・・・でも、桜は散ってそれでおしまいではない。
散った後に、青々とした葉が必ず姿を現す。その葉こそ翌年に花を咲かせるための養分を蓄えているのだ。葉っぱといえども、大切な役目があるんですよね。
 
 私は散った後の桜の葉のように、何がしかの光明を見出せたらと思いをはせています。運が悪いと思っても、気持ちだけでもね。それも、やはりその思いだけで終わりそうですが、せめて満開の桜を楽しめた、そのことを良しとしようと思った。負け惜しみかな・・
 
 そうだ、気分転換に、妻と息子と、のんびりバス旅行でもしよう。
 
 
 

♪岬巡り(山本コウタロー)

若い頃、一人旅でこの歌を歌いながら岬巡り。

 

 

♪ささやかなこの人生

 

 

 

 

♪What a Wondful World

 

 

●私は事業所の一端に「駄菓子屋コーナー」を併設していた。
特別支援学校、学級の実習の場に活用するためで、実習先から断られて、行き場のない子供を優先して引き受けるためで、私の長男(自閉症)がそうだったからだ。
 
 駄菓子にしたのは、単価が低く、間違いがあっても、どうにでもなると思ったからだ。そして少しでも店らしい雰囲気を出すために、外部から見えるようにした。
 
 旧式の手打ちだが、中古で手に入れた本物のレジスターを用意して、行動障害や多動の実習生を立たせ店員さんを体験。知的の子が買い物をして、お客さんを体験。こんな感じでした。
 
 
●そんなある日、おもむろに初老の男性が店内に入ってきた。近くの小学校の校長先生で「新しくできた駄菓子屋に小学生が出入りしてる」と父兄から聞かされて様子を見に来たようだった。
 
 実習生の出入りや奇声などで近隣からクレームが入ったことがあり、また何かお咎(とが)めか・・と覚悟をしていると「障がいが持った子供たちに関してのお話を学校で」とのこと。
 
 それで安堵した私は「地域のおじさんの、お話の会としてなら」と引き受けた。対象の小学生たちは、実習生が来ない日だったが、鉛筆とメモ用紙を持って「取材」にも来た。
 
 
 
子供たちから届いたお手紙。宝物ですね 照れ
 
 
●事前の打ち合わせで、校長が児童全員の顔と名前や家庭環境まで知っているのには驚いた。そんな私に「児童数が少ないからですよ」 と謙遜したが、校内の雰囲気で、それだけではないようにも思え「お話の会」を私に依頼したことに納得ができた。
 
 校長先生は来年定年退職で、次の職場は児童館の館長だそうだ。私の「駄菓子屋コーナー」も参考にして取り組みたいと話してくれた。
 
 後日、校長先生が子供たちが書いた感想文、お礼のお手紙を持ってきてくれた。何から何まで配慮、気配りの行き届いた校長先生の対応に、私の方こそ多くを学びました。
 
 我が子が障害を持っていたからこそ、この素晴らしい体験に巡り合えたのだ。桜、咲く、だ!
 
🌸庭の桜が満開です
 
 
 子供が障がいを持っていることを嘆いたり悲観的になった時は、このことを思い出そう、まんざらでもないこともある。世の中も現実も厳しいが、それがいい、そうしよう。
 
●「誰も悪くはない」が口癖の私は、そう思いを新たにした出来事でした。
 
 
 

 

♪ささやかなこの人生 (風)

     花びらが散った後の桜が とても冷たくされるように・・・

 

 

 

♪好きにならずにはいられない(エルビス・プレスリー)

 

 

 ●卒業、入学式と、この季節になると思い出すのが、かつて小学校の入学式に来賓として参列して、ある男の子の行動に心を揺さぶられた話です。

 

・・・・・・

●体育館で入学式の式典が終わると、クラスごとの集合写真撮影があり、その情景が微笑ましくて思わず足を止め、私は目を細めて眺めていた。

 

 担任の先生は、全員の顔が写る様に子供の立ち位置や服装の乱れを直してあげたり、こまねずみのように忙しそうに動いていた。その忙しさに拍車をかける小柄な男の子がいた。

 

 男の子は上着のボタンをはずし、お腹を突き出すようなポーズをとっていた。それに気が付いて彼のボタンをかけ直した先生が立ち去ると、彼は即座にボタンをはずして、お腹を突き出し、元のポーズに逆戻り。

 

 それを繰り返すので、先生はたまらず「お行儀よくしようね」と優しく言い含めながら彼のボタンを掛け直した。そして男の子は観念したかのように先生の望む「お行儀のよい姿勢」になり、先生の「OKです!」の合図でシャッターが切られた。

 

 ところが、だ。男の子は機敏に上着のボタンをはずし、お腹を突き出して撮影完了。かくして、彼の目的は達成された。男の子には、ふざけた様子がなく、いたって真面目だった。

 

 

 

●撮影が終わると解散で、子供たちは付き添いの親と連れ立って帰路に向かったが、あの男の子には付き添いの姿が見当たらず一人で帰ろうとしていた。その後姿が、私には不憫(ふびん)思えたのと、撮影のこともあり、無性にお話をしてみたい衝動にかられ彼に声を掛けてみた。

 

「こんにちは。きょうから小学生だね、おめでとう」。男の子は「うん、立派な小学生になれって父ちゃんに言われたんだよ」

「だったら、写真を撮る時も立派にできたのかな?」「うん、父ちゃんは仕事で来れなかったけど、父ちゃんに買ってもらったベルトを写真に撮れたから、立派にできたんだよ」ニコニコ

 

 

●更に話を聞くと、男の子が父親と二人暮らしで、父親は当日に急な仕事が入り入学式には参列ができなかった、ということがわかった。そして、上着のボタンをはずして、お腹を突き出したのは、父親から入学祝いに買ってもらったベルトを写真に残すためで、それを「大好きな父ちゃんと一緒に入学式に参列した」ことにしたかった、ということがわかった

 

 彼なりに一生懸命に考えたに違いない。保育園を出たばかりのまだ幼い子供が入学式に一人で登校し、不安で寂しかったろう、父親も後ろ髪を引かれる思いで辛かったろう・・そう思うと切なくて切なくて、胸がいっぱいになり次の言葉が出なかった。

 

 そんな事情を知らなければ「お行儀の悪い子」との烙印を押されるだろう。あの撮影時の他の親たちの彼に対する手厳しい「ささやき」も気になった。

 

 これはまずい!と思った私は、校長が来賓の見送りに出たタイミングに、その話をすると「教えて頂き有難うございます」と礼を言われた。校長を信じ、祈る気持ちで後をお任せした。

 

 

●子どもの話は根気よく聞いて、そこから子供の気持ちを引き出すことが大人としての務めだと思っている。あの男の子の父親は片親というハンデイがありながらも、立派に親としての務めを果たしている。あの男の子の感性に触れた私はそう確信した。

 

 

 子供の「心の引き出し」の中は大人が見ればガラクタが入ってるが、そうは決めつけたくはない。思いがけない宝物が詰まっていることもある。大人はその引き出しを開ける手間暇を惜しむまい。面倒で疲れるが、その作業は案外楽しいものだ。

 

 その作業の成果なのか、私は大声で叱ったり怒鳴ることなく過ごしている。要は、あせらないこと。お陰様で「キレる高齢者」と言われずに済んでいます。今のところは・・・ですがね。

 

 

 

 

♪恋はあせらず(フィルコリンズ)

 

 

 

 

 ♪花のささやき (ウイルマ・ゴイク)

  カンツォーネ(イタリア)の名曲。懐かしい!

 

 

 

●私の教員資格は中学、高校だけで、小学校は持っていないが、教育委員会からの依頼の研究授業で「ゲストテイーチャー」という肩書で小学校の教壇に立ったことがある。

 

 それを知ってなのか「うちの子供がクラスでいじめを受けている」と、小学4年生の男の子を連れだった母親から相談を受けた。


「クラスのみんなから「汚い、キモイ」と言われ、しかも、担任の先生までも一緒になって言っているので、教育委員会に相談しようと思ってます」と母親は毅然と話した。

 

「それで、お子さんは、学校には行ってないのですか?」
「いいえ、それが・・・普通に、むしろ積極的に行ってます。おとなしい子なので詳しくは話さないけど・・・あの子は、我慢してるんでしょう」

●私は、大人の推測ではなく、真相を本人から直接聞く必要があると思い、男の子に「学校で何があったの?汚い、って言われてるみたいだけど」と声を掛けた。


 だがその問いかけに、男の子はモジモジして何も言わず、たまりかねたように母親が代わりに話そうとしたが、

それを私は遮(さえぎ)って、再度、彼に同じ質問をした。

すると「僕・・・僕、教室で、鼻くそを取ったとき、それを食べるんです。それを見て、みんなが、汚い、キモイ、って言うんです。先生も、汚いから、鼻くそを食べるの、やめなさい、って言うんです。これって、いじめですよね?」

●普通、鼻くそは、取っても食べません!それ「いじめ」じゃないよ、って、思わず吹き出してしまって、ごめんなさい。


      🌸我が家の庭(仙台)の桜が満開です.

 

 言葉尻だけとらえると、確かに、先生も一緒になって「汚い」と言ってるのには違いないが・・・先生にも子供たちにも、他意も悪意もないようだが・・ 

 あのお母さんは、男の子が学校で「汚い、キモイ」と言われたことにショックを受けていたようだが、自分の子供が学校で鼻くそを食べてることの方が、よっぽどショックだったようだ。

 これで教育委員会に行ったら、恥をかいたことでしょう。(行けば良かったのに。)

 

              
●最近は、いろんなことがあるせいか、ちょっとしたことにでも過敏に反応する傾向があり、なんでもないことでも、歪曲や一方的な解釈で事件にしてしまうこともある。

 落着いて、冷静に、感情的にならず、早とちりや独りよがりにならず、まずは話をよく聞くことが大切ですよね。


●母親は「なんで、教室で鼻くそなんかほじって食べたの!」と子供を強い口調で責めると「歯が痛くなったから・・」母親「はあああ~?」

 子供は「おじいさんが、歯が痛いとき、鼻くそを歯に詰めると治る、と言ってたから・・・」母親「それ、正露丸でしょ!」


 後の話はご家庭で、と穏便に引き取ってもらったが、あ~あ、力が抜けた。気が抜けた。

そもそも、特別な付き合いもなく学校のことを先生でもない他人に相談しに来るなら、事前に連絡をして都合を聞くとか、菓子折りの一つでも持ってくるもの、それが常識!私の事務所は無料相談所ではない!

 

 私はボランティア活動をしているが、あのお母さんは何か勘違いをしてるのでは?そのために私にとっての貴重な仕事の時間を取られた、と少しムカムカした。

 

 当時の私は知的障がい者支援活動の資金調達のために汗水流し、最もお金になる土木現場の仕事をメインにして、学校や市民講座の講師も引き受けていた。多忙だったが忙しい素振りを見せずにやり繰りしていたので、あの母親には私が余程の暇人にみえたのだろうか・・・

 

 

●後で聞いた話だが「衛生上、良くないので鼻くそは、食べないように」と担任と子供たちで話し合い、何も問題なく、みんな仲良く過ごしているようだった。問題を大きくしようとしたのは、早とちりの、あの母親だったのかも・・・

 

 相手の話をよく聞かずに自分の権利ばかり主張して、自分の義務は、おざなりにするご時世になったのかな、と情けなくも寂しくも思いました。

 

 

 

 ●私が小学生の頃、担任の先生が話してくれたケネディ大統領の演説の一節を紹介します。

感銘した私は、水彩画でケネディ大統領の肖像画を描き、卒業文集には「ケネディのようになりたい」と書いたことを覚えています。あの一節はその後の私の人生に大きな影響を与えました。

 相談に来た母親が帰った後、ふと、そのことを思い出したので・・・ あのお母さんは母親として我が子を守ろうとしただけなので、責めてるわけではありませんので。念のために。

 

 

「国があなたのために何をしてくれるのかではなく、あなたが国のために何ができるのか、考えようではありませんか。」

 (原文)  Ask nat what your country can do for you, ask what you can do for your country.

 

 

 ・・・・・

 ♪リーチアウト・アイル ビー・ゼア (フォー・トップス)

 米国の人種差別が過激だった1966年の大ヒット曲で、私の好きなモータウンサウンド。

 

 

 

 

♪ビタースイート・サンバ(Herb Alpert & Tijuana Brass))

オールナイトニッポンのテーマ曲

 

 

●支援学校、学級の職場体験の場として事業所に駄菓子屋コーナーを併設していた頃、宿題をせず遊びに行くことを、お爺さんに叱られて、不機嫌なまま当方にきた近所の男の子の話です。

 

 

・・・・・・・・

 

●職場体験の実習生が帰り、後片付けをしていると、近所の男の子が駄菓子屋コーナーに入ってきた。何も言わず不機嫌な様子なので「いらっしゃいませ」と声を掛けてみた。

 

 だが彼は返事もせず仏頂面で、そっぽを向くので「あれ?今日は耳が日曜日でお休みかな?」と、からかうと「どうして、うちのおじいちゃんは、学校にも仕事にもいかないで、何もしないで、ただ家にいるだけでいいの?それに勝手に決めるし、怒るし」と言い放った。

 

 何があったのか尋ねると、友達が遊びに誘いに来たのに「まだ宿題をやってない!」と、おじいさんに一喝され、それで友達が帰って行ったことが面白くなかったようだった。


●すかさず私は「この前、家族でデイズにーランドに行った、って聞いたけど、おじいさんは?」と言うと「行かない。だって、ママが誘っても、いつも留守番してるって言うんだよ」

 「お留守番かあ。あのね、おじさんが運転で家族で蔵王にドライブで、高速のインターまで来た時、家の鍵をかけ忘れたって、あわてて家に戻ったことがあるよ。でも勘違いで鍵はかけてあったから一安心したけど、それで遅くなってしまって、あんまり遊べなくて残念だったよ。

 

 それと、うちのお母さんが、出がけは忙しくてアイロンの電源を切ったかどうか自信がない、って家に戻ったこともあるしね。こんな時、家にお留守番でおじいちゃんがいれば、電話で確認をお願いして戻らずにすんだのにね。」


 こんな話を神妙に聞いていた男の子は「僕のうちでは、そんなことないよ。ボクの家には、いつもおじいちゃんがいるしね。パパのお父さんなんだけどね」と少し得意げになった。

 

 

庭のショウジョウバカマ

 

●そして「それと、うちのおじいちゃんは、宗教の人やセールスを追い返すのがうまいんだよ。迷惑電話もね。ボケたふりして、おもしろいよ。風が強い日に「干した布団が、ふっとんだ」って、教えてくれたり。ママがね「とても助かる」って言ってたよ。

 

 それと難しい言葉、う~んと知ってるんだよ。ニイハオ、とかシェイシェイとか中国語も話せるし、将棋も強いし」と話してくれた。

 

 私は目を細めて話を聞いて、話が一段落したところで『おじいさんは人生の経験者だから、やりたいことがあってもみんなに気を使うことができるんだよ。感謝しようね」と言って男の子に目くばせをすると、大きくうなずいた。

 

 この子はおじいちゃんが大好きで、甘えてるんだな、おじいさんも、ただ甘やかすだけではなく、言うべきことは言っている、と察しがついた。


●お年寄りは『ただ、いるだけでいい』ただいるだけが、家族の役に立っているということに、男の子は気が付いたようだった。「誰だって、ただいるだけで何かの役に立っているんだよ、君もだよ」と言うと嬉しそうに笑った。

 男の子がおじいさんに叱られても、他人の私に一生懸命、自分のおじいさんの自慢をしてくれたことが、嬉しかった。

 

 

♪ただお前がいい (中村雅俊)

 

 

●私は孫には恵まれないが、もしも孫がいたら、ちゃんと叱ったりできるかな・・嫌われるのが恐いのと可愛いさで、何でも買ってあげたり、盲目的に甘やかすだろうな・・彼が帰った後、そんなことを思った私です。

 

 私も「ただいるだけでいいんだよ」って、言われたら嬉しいしね。

 

 

 

 

 ♪白い色は恋人の色 (ベッツイアンドクリス)

 

 

 

 

 
 

♪希望の轍(わだち)

 

 ●勉強が苦手で引きこもり気味の高校生の母親から相談を受けた私は「高望みはせず、赤点脱出を目標に」と彼の勉強のお手伝いを引き受けた。その母親とは障がい者支援活動を通して知り合った。私が高校の補習授業に関わっていた頃でした。
 
 母親は自営業(飲食店経営)で、平日の帰宅は夜遅いそうだ。家族は、自閉症で更に身障者(車椅子)の弟さんと、おばあさんが同居の母子家庭。彼はお年寄りや弟想いの優しい高校生。そんな環境の高校生との他愛のない会話を書いてみました。
 
 ちなみに、取りあえず高校ではなく、さかのぼって中学生のテキストを「おさらい」と称して勉強をしてもらいました。
 
 
 ・・・・・・・・・・
●私の事務所に高校生が紙袋持参で訪ねてきた。紙袋の中はワカメで「三陸の母の実家から沢山送られてきたから」と母親が持たせたとのこと。「性格はいいが成績が驚くほど悪く、塾に通うレベルにも届かない」と母親に懇願され、かつて宿題や予習、復習などで、部活の帰りに私の事務所に立ち寄っていた高校生だ。
 
 彼は「用件はそれだけです」と帰ろうとしたので「コーヒーでも飲んでいけば?萩の月があるぞ」と声を掛けると「萩の月・・では、お邪魔しま~す」と中に入って椅子に腰を下ろした。
 
 
高校生 「オレって、勉強できなくって」
私 「ふ~ん、それで?」
 
「多分、バカなんだよね。塾にも行けないほどのバカなんだよね」

「バカって、恥ずかしい?」

 
「恥ずかしいよ、恥ずかしいから人に会いたくないんだ。だから一人になってこもった方が楽で、それで、いろんなこと考えると、面倒くさくなって、気難しくなって・・・・」

「気難しくなって・・・それで、どうなったの?まさか、まさかの、ひきこもり?」

 

「部活には行ってるから、ひきこもりとは、ちょっと違うけど・・・細かいことも気になって、こだわって・・・」

「すごい!細かいところにこだわって心づかいができるなんて、すごいよ。

おじさんは大人なのに心づかいができなくて、ひきこもり?だなんて言ってしまうし、ごめんね。君が頑張ってるんだって、今わかったよ。結果が出ていないだけなんだよね」

 
「結果が出てないだけ・・そうか・・でも、すごいよ!って・・それって、なんか、バカにしてない・・・・よね?」

「まさか。してないけど、そう聞こえたの?細かいことが気になるって、そういうこと?」

 

「えっ、ちがうけど、そうじゃないけど、なんか、びみょう。頑張ってるつもりでも、頑張りが足りない、もっと頑張れるはず、とか言われるとプレッシャーだけど、頑張ってるね、と言われると、認められたようで嬉しいよね。おじさん、うまいね 」

 

「うまいね、って褒めてくれて、どうも有難う。何をどう頑張ったらいいか大人だってわからないし。そもそも頑張れって言葉は挨拶みたいなもので、相手のことを思っての善意の言葉だから、「頑張って!」と言われたら、素直に、はい、頑張ります!と言ってみれば?気持ちいいよ」

 
高校生「そっか、だよね。じゃあ、これからそうしてみるよ」
私「はい。じゃあ、頑張って!」
 
「はい。じゃあ、頑張ります。あはははは」爆  笑
「そこは笑うところじゃないけどね、喝 (かつ)!」
 
仙台銘菓 萩の月
 
「萩の月、食べていいですか? これ、どうしたの?」
「さっき帰ったお客さんからの頂き物。どうぞ」
 
「あのね、萩の月、小さくして中のクリームも減量したって知ってた?実質大幅値上げだって、うちのお母さんが騒いでたよ」
「うん、コロナで観光客が減ってお土産用の売上げが落ちて、菓匠三全も大変らしいよ。あれ?主婦の会話みたいになったね」
 
 
●こんな感じでの高齢者のオヤジと高校生の他愛のない会話でした。母親の高校生の息子への愛情、配慮、その母親を慕う高校生、そんな親子の温かい絆を感じられ、胸が熱くなりました。
 
 「頑張れ!」は、挨拶みたいな善意の言葉掛けと彼に諭した私ですが「頑張れよ!」と声掛けをして彼と別れました。
 
 
 

♪I was Born To Love You (クイーン)

 

 

 

 

●東日本大震災から15年目の節目の年、と今年は例年よりメディアの特集が多いように思う。「あの日を忘れない」ということは大切で、地元民として有難いことでもあるが、忘れたいこともある私には「寝た子を起こされた」と感じることもありました。

 

 

●震災当時、私は身の危険を感じ避難所へ、と走ったが、長男が自閉症で避難所は難しいと感じ、家に戻り自宅の一室を片付けて居住スペースを作り自主避難にした。

 

 その後、半壊の家の北側の外壁と台所、浴室、玄関、駐車場を解体して修復工事で、どうにか震災前の生活を取り戻すことができました。

 

 そして、自宅の風呂が使えるようになったのは、ガスの復旧が遅かったこともあり震災から7か月後の11月でした。その間、寒さと空腹に耐えて風呂なしの生活は不自由でも、我が家は津波や火災、原発被害でもないので、被災者、と名乗るには遠慮があり、おこがましくて、支援の手が届かなくても、半壊の家でも自分の家で暮らせることが恵まれていると思っていました。

 

 

ガラケーで撮影の15年前の復旧工事中の自宅

 

 

●被災地に日赤、全国、全世界から沢山の義援金が寄せられたようで、我が家にも、その配分として3万円の振込がありました。それが唯一の全国からの支援でしたが、世の中から見捨てられていなかった、と、やっと救われた気持ちになりました。

 

 

●家の修理工事を依頼した業者は、半壊査定で行政支援のない私の支払い能力を危惧して、ローンは不可、工事代金は現金で、即払いが条件でした。

 

 頼りの綱の地震保険は、未曽有の大災害で全額支払いは保険会社の存続が困難になる、と全額ではなく見舞金として200万円の支給は想定外でした。工事の見積は約600万円で、定期預金や生命保険を解約するなどして、現金の用意できた分だけ工事、そして現金が用意出来たら残りの工事を発注、その繰り返し、という状態でした。

 

 

●余談ですが、二人の幼い子を連れた若いお母さんが、炊き出しの列に並び順番になると、NPOだかNGOとやらの人に「自主避難者の分はない、全員に配って余ったら支給する」と断られたと嘆いていた。担当の彼らは「避難所の人たちを守るのに懸命なんです」とは言うが・・・

 

 あの母娘は避難所に行ったが、満杯で入れない、と、あの担当者に言われて引き返し、床下浸水の自宅に自主避難、夕方、その避難所に炊き出しの列に並んで受けた対応だった。「わざわざ仙台まで来てやった」と言う彼らとの温度差を感じました。

 

 

 

 

♪Lemon Tree

交通事故で彼女を亡くした男の歌です

 

 

●今年は15年目ということで東日本大震災に関する報道や再現ドラマなどが多く、津波のシーンの予告が出ただけで、見なくても津波に流された大切な人たちが思い出され切なくなります。

 

 当時、私はメンタル面に違和感を覚え、病院で鬱と診断され、45日分の抗うつ剤が処方され、カウンセリングを受けました。その当時と同じような感覚が戻ってくるような昨今です。

 

 こんな時、自分の気持ちを、どう持っていけばいいのだろうか。抗うつ剤やカウンセリングを受けるほどでもないが、どうにかしなくては、と他の方のブログを読んで参考にしています。

 

 

●ところで、当事者の私たちではなく、あの大震災と無縁の地域の方は、東日本大震災関連の報道や番組が多すぎるとは思わないだろうか、しかも似たような内容なので、うんざりはしてないだろうか。それで私と同じような気持ちにならなければいいが・・と余計な心配もしています。

  

 更に、東日本大震災以外の災害での被災地は、その後どうなんだろうと心配しています。

 

 

 能登地震の様子は、こちらでもよく報道されますが、熊本地震、広島の土砂災害は、あれだけの大災害なのに報道が少なく気になっています。

 当時、あのニュースを見て他人事ではない、と被災地の市役所宛に仙台の名産品など応援の気持ちを送りましたが・・・その後、みなさん、どうされたろうか、何かできないか、理不尽な思いをしてなければいいが・・そんなことを思う心配性の私です。

 

 

龍の松(気仙沼市 岩井崎)

津波で残った松

 

 

●あの出来事を忘れないように、と今年も震災遺構を訪ねて気仙沼、南三陸に家族で行ってきます。ホテルも予約済み。忘れないことが大切だと思っていますが、忘れることがあってもいいのでは、前に進むためにも・・そうも思っています。

 

 

 

●東日本大震災の記憶を忘れまい、被災地以外の方にも何かの参考になれば、と2011年 の震災直後のブログ(当時はYahoo)に出した記事を複製しました。

 ラジオから得た相次ぐ情報をピックアップした記事ですが、当時の生々しい様子がよみがえり、改めて災害時に備えようと思いました。

 

 ・・・・・

  2011年 3月15日 記

 津波で閉鎖されていた仙台空港は、救援物資搬送用のヘリコプターの発着ができるようになりました。ただ、民間の一般の航空機の発着の見通しは立っていないそうです。

 仙台市で災害ダイヤルが設置されました。 022-214-3805 PM 9:00まで受付。
避難場所、ゴミ、ライフラインなどの問い合わせができますが、電話は繋がり難いようです。


 仙台市青葉区五橋の福祉プラザ内と、宮城野区新田の宮城野体育館内に、災害ボランテイアセンターが開設されました。電話がつながらないので、直接来て欲しいとのこと。 
 

 今はボランティアさんに宿舎の用意がないので、自分の責任で活動できる経験者を希望。

自転車、スコップは貸与できます。お願いしたいのは、救援品の仕分け、高齢者宅のゴミの搬出など


 泉インター近くのエネオスGSで、ガソリン24時間給油販売しますと、今朝、情報がありましたが、AM 10:00の情報では、売り切れで販売中止になったそうです。

 

 太白区鹿野のコスモは、1回2リットルの制限で給油可能。長蛇の列で道路が渋滞。1時間は並ぶようです。それ以上必要な場合は再度、並ぶ必要があります。その後10リットルまで可に。

 

 仙台市体育館近くのカメイで、灯油を一家族10リットル1,000円で販売。沢山の方が買えるように、同じ方が2回並んで買うのはご遠慮ください、なくなり次第終了、とのこと。
 

 青葉通のダイエーの買い物客の行列は、1km以上。定禅寺通りまで続いてます。
ヤマザワ泉店が「一人1点だけ」の販売でAM 10:00 開店。生協桜ヶ丘店では400人以上の行列。

 

 長町南のヤマザワは店舗全壊で営業不可だが、店員さんが懸命に瓦礫の中から商品を取り出して、駐車場に並べて無料配布しています。

 

 入浴施設は、富谷町の「湯っぽ」もAM 10:00 に開店予定。 かなりの混雑を覚悟して下さい。

太白区の「極楽湯」は、約2時間並んで整理券を受け取り3時間後に入浴可能。入浴時間制限、湯量が少ないそうです。節水にご協力を、とのこと。



 山形行きのバス停は、ミヤコーも山交も勾当台公園までの長蛇の列で、乗るまでに3時間以上は待つそうです。 雨が降って温度も下がり寒いので、寒さ対策をしっかりして並ぶように、とのことです。 (当時は、仙台から山形に非難する人が沢山いました)

 みんなで助け合い、協力し合って災害を乗り切ろう!

 

 

 ●以上、2011年3月15日にアップした記事でした。ご参考まで。

気分を害されたり、不適切と思われましたら、お詫び申し上げます。悪意や他意はありませんので、手直しをして再度アップを考えますので、ご容赦のほどよろしくお願いいたします。

 

・・・・・

 美談も多々ありましたが、商魂たくましく被災者の足元を見て販売する店もありました。

たとえば、妻の友人の話で「乾電池を求めてスーパーに行くと、いかにも売れ残りの在庫品との抱き合わせ販売だった。乾電池が必要だったので仕方なく購入した。ケンミンショーに時々登場する地元のUスーパーだが二度と利用したくない」

 

 オーガニックが売りの女性が経営のパン屋は、大きさも形もソフトボールのようなパンを1個1,000円で予約販売。高いと思ったが他に食べる物がなかったので整理券をもらい買いました。 更に、彼女の家のストックのような調味料、缶詰、果物などをテーブルに並べて販売。変色したバナナ、しなびた小さなリンゴが1個500円だった。娘が果物が食べたがっていたので、そのリンゴを買ったが、どこか情けない気持ちになりました。

 

 こんなこともあった、ということも付け加えておきます。何でも有り。これも、未曽有の大災害だからなんですね・・・

 

 

    (注)他の方のブログ記事からお借りしました。

拡大すると文字が読めます。

 

 

 

♪Imagine

 

●15年目になる東日本大震災で辛い思いをしたが、心温まる話も沢山ありました。メディアで紹介されるような話ではありませんが、私の心に残った話を紹介します。
  
 
● NHK 仙台放送局のラジオで、若い男性アナウンサーが、被災地の情報や状況を淡々と読み続ける中「ストレスで母乳が出なくなった母親が、夜通しスーパーの開店待ちの列に並んでミルクが手に入った」と読み上げた後に絶句。しばし沈黙が流れ、放送事故のようになった。
 
 すぐに立ち直って続けたが、彼が泣いているのがわかった。NHKなのに・・・ラジオの前で目頭が熱くなった。我が家も食料が手に入らず困窮していたが、赤ちゃん、よかったね、と思わず安堵した。
       
 
●震災直後の東北放送ラジオ番組で、広島市中区の幟(のぼり)町中学の男子生徒からカセットテープが届いた、と紹介された。「今、自分ができること」として、被災地を激励する内容の自作の歌をギターで歌っていた。決して上手ではないが一生懸命歌っていることに励まされ、彼の思いが届き、心に響いた。
 
 いつもは明るくひょうきんなパーソナリテイの石川太郎氏が「広島の中学生が・・・我々のために・・・」と言いながら声を詰まらせた。生放送中なのにアシスタントも泣いていた。私も泣けた。有難う、広島市立幟町中学3年生君!
 
 
●仙北(宮城県北部)の高校を卒業後、上京した女の子が東京のコンビニでアルバイトをしていた。彼女は東北訛りが少し残ったままで挨拶や接客。そのコンビニで夕方、いつものジャージ姿の軍団が店に酒を買いに来た時のこと。
 
 そのうちの一人が、会計でレジ脇の募金箱に気が付くと 「やべぇ、オレ募金の金、持ってねえわ」と女の子の顔を見つめて「ゴメン、この金、募金箱に入れてくれ」と言って酒を全部返した。
 
 すると、後ろのお兄さんたちも「オレもそうするわ、酒は返品」と言って、手にしていたお金を募金箱に入れて、棚のケースに酒を戻しに行った。
 
 彼らは店内で挨拶する彼女の訛りで、東北出身と気が付いていたようだった。「また来るわ」と店を後にした彼らの後ろ姿を見送る彼女の目から涙が落ちた。一人じゃない、頑張れる!と思った。
 
●東京で就職したサラリーマン。地震直後の駅で電車が来なくて、待ちくたびれて階段に座っていると、ホームレスの人たちが「寒いから敷け」って段ボールをよこした。いつも私たちは、横目で流しているのに・・・・温かかった。
 
 
●罹災証明書の申請で行った区役所で、中学の同級生とバッタリ出会った。彼は同級生に会うと「生ぎっだがぁ(生きてたか)」と挨拶をして笑わせるムードメーカー。私たちは「生きってだぁ(生きていた)」と応じ「いがったないや(良かったね)」とお互いに応えて大笑いをするのがお約束。
 
 彼は、いつもの「生ぎってだがぁ」の挨拶だったが今回は神妙だった。彼は弟さんと二人で中古タイヤの仕入れ販売と車整備の自営業で「店は床下浸水で済んだが、中古タイヤを引き取りに行った弟が帰って来れなかった。近所に行っただけなのに・・」と肩を落とした。「生きてたか」の言葉が重く感じた。
 
小、中学校が同じの同級生の家付近。
 
●私は、あの震災で人生の歯車が悪い方に向かった、と己の不幸を嘆いて、その辛い思いにフタをしたくなった。だが今になって、こうして見ず知らずの人たちにも力を頂いたからこそ、今日に至ってると、有難く思っている。
 
 それでも、津波で私の母方の親族が「ほぼ全滅」で、津波の動画が出ると辛く、それだけは見たくもなくて、フタをしていますが・・・あの時を忘れず人生の糧として、過去は変えられないが未来は変えられる、と無理にでも思ようにしています。
 
●我が家は、原発被害も津波被害も火事の被害もなく、家が半壊で済んだので恵まれていたのかも。ただし、半壊査定はどこからの支援もなく、並んだ避難所の炊き出しすら、自主雛者の分はない、と除外され、独感感が募り寂しかった。。
 
 思い余って、そんな現状をYahooブログに出すと、沢山の方から支援の申し出があり「寄り添ってくれる人がいる」と思えた時が嬉しかったね。更に背中を押して頂いたり、そのことは今も忘れずにいます。
 
あれから15年になりますが、改めまして、みなさんに感謝。有難うございました。
 
 
 
 

♪What a Wonderful World 

素晴らしい世界、美しい人々

 

 

 

♪The Rose (Bette Midler)

 

 キャンディー 続・飴ちゃんおばちゃん。で、こんなエピソードもありました。

 

●家庭の事情で親からの仕送りなしの学生時代、奨学金は審査が厳しく私は申請却下。それで、学費の安い大学を選択したが、学費はもちろん、家賃、生活費の全てを自力で捻出するしかなく、複数のアルバイトでやり繰りをした。
 
 だが、複数のアルバイトでの疲労が蓄積し、授業中の居眠りや遅刻が日常的になった。居眠り対策でバイトを減らすと、収入源になり食事抜きの日も余儀なく、目に見えて痩せてきた。
 
 私は居眠り防止に、と教室では遅刻した時でも教授の目の前の一番前の席を陣取った。それで安堵して睡魔に襲われた私は机に伏せて居眠りをして、失礼な学生、と顰蹙(ひんしゅく)を買っていたようだった。爆睡していた私はそれを知らなかった。
 
 そんな私に違和感を感じた年配の教授(東大を定年退職の嘱託)が、同級生を通して私の事情を知ると、臨時募集の国の出先機関のバイトに、教授が「縁故」として私を紹介してくれ、そのお陰で採用された。
 
 バイトの主な仕事は、書類整理などの雑用と陳情の受付で、服装は背広、ワイシャツ、ネクタイが義務付けられた。外出着が学生服だった私は、背広とネクタイは教授からお下がりの頂き物て、ワイシャツは自分で用意することにした。
 
●私の手持ちのワイシャツは仙台の実家から持参の1枚だけなので、着替え用を買いに商店街の洋品店を訪ねた。2枚は欲しかったが私の予算内では1枚だな・・と品定めをしていた。
 
 そこに店主らしき初老の男性が「これサービス、売れ残りだけど」と薄いピンクのワイシャツをおもむろに差し出した。そして「辛くても頑張るんだよ」と言葉を付け加えた。
 
 特売コーナーで、1枚のワイシャツを真剣に選ぶ東北訛りが残る学生服の坊主頭の私に、何かを感じたのだろうか・・・
 
 私は嬉しい気持ちだけが先に出て、お礼もそこそこに受け取った。だが、バイトといえども国の出先機関でピンクのシャツを着る勇気はなく、袖を通すこともなく時が過ぎた。
 
 
 
●その後、多少の余裕ができたので、あの店にワイシャツを買いに行くことにした。あのおじさんに、あの時のお礼をきちんと言おう 「頑張ったので、もう1枚買えるようになりました」とか、覚えてるかなあ、などと、いろいろ考えながら、足取りも軽く店を目指した。
 
 いざ店に着くと、シャッターに「閉店しました。長い間お世話になりました」 の貼り紙が! 愕然として隣の店で事情を尋ねると「何もわからない」とだけで口を閉ざした。
 もしや、私が店を利用した頃は店じまいを覚悟、それでサービスを・・・・
 
 
 私は洋品店のおじさんへの感謝の意思表示として、例のピンクのワイシャツを着てバイト先に出向いた。それを見たK部長さんから「非常識だ!地下倉庫の人のいない所で掃除でもしてろ!」と大声で叱責された。
 
 
 
●K部長は、私が東大教授の縁故採用ということが気に入らないようで、日頃から「東大が何だ」と私への当たりが厳しく、今回は何か言われるな、と覚悟はしていた。
 
 だが、これ程とは・・他の人からの視線も刺さって、辛かったね。辛かったけど「辛くても頑張るんだよ」の、あの店主の言葉が思い浮かんで、無言で地下倉庫に向かいました。
 
 
 その地下倉庫に入ってきた掃除のおばさんがワイシャツ姿で掃除をしている私を見て驚いた。おばさんは、私を「うちの息子」私は彼女を「おかあさん」と呼ぶ仲だったので、つい甘えて口をとんがらせて言い訳をした。
 
 おばさんは「そうかい、いい心掛けだね、そのうち、いいことがあるよ」とポケットから何かを出して私の手に握らせ「ほらね、さっそくいいことが・・・あったあ」と、いたずらっぽく笑った。飴玉だった。
 
 私も一緒に笑うと、おばさんは「あんた、不憫(ふびん)だね」と言ってハンカチで目ををぬぐった。人生は思いがけない人たちに支えられ寄り添ってくれる人もいると思うと元気が出た。
 
 そして洋品店のご主人から受けた親切のお礼を他の人にリレーにしよう、それが幸せな気持ちの連鎖になれば・・そうしよう、それがいい、そう心がけよう、と思うようになりました。
 
 
●年月が過ぎた今でも、地下倉庫で「飴ちゃん」を私に握らせた掃除のおばさんの手の温もり、そして私を思って涙してくれたことは、忘れられません。今更ですが、改めて、有難うございました。
 
 
 

♪オブラディ・オブラダ(The BEATLES)

飴ちゃんおばちゃんと出会った時に思い浮かんだ歌です