昔のブログ記事を少しだけ改変してnoteに投稿し始めていることはすでに書いた通りです。今日までに15くらいの記事を出しました。
その過程で以前のブログにざっと目を通すことになりました。思いのほか文章が稚拙だったり、当時考えていたことが筋違いや錯覚だったことに気づくことがあります。
noteに投稿し始めている記事は、9年前に妻カタイを亡くしたあと、一緒に暮らすようになった私より37歳若いMのことです。もう少しすると彼女との結婚、そして別の女との出会い、離婚、そしてまた別の女との出会いと言う風に、目まぐるしい女性遍歴を経験することになっていきます。
前のブログの記事の多くは、何の変哲もないエロじじいの要素と、純愛のふたつが混ざり合った何年間かの記録です。高年齢と言うことと、よくあるタイ人女との疑似恋愛物語ではないところがちょっと変わっているかもしれません。
かかわった女たちのことははっきりと覚えています。でも当時自分がどんな風に思っていたかは、必ずしも記憶がさだかではありません。なので昔の記事をざっと読み返してみると、「へえ~、自分はそんな風に感じていたんだ」と気づくことがままあります。過去の自分の日記を読み返すのと同じ行為ですから。
「別れた女たちとの色恋沙汰を思い出してどうする」という声も聞こえてきそうです。キャディーのMとの関係は1年や2年ではなく、ゴルフ場で知り合ってから数えると、10年以上という時間経過がありました。だからどうやっても自分の記憶から消すことは不可能です。「今頃どうしてるかな?」と思うことがゼロではありません。でもそれは“思慕”というものとは全然違う性質のものに変わっています。
noteでは、今の妻であるYとの出会いまでをきっちり書くつもりでいます。相当に長い道のりになると思います。でも最後に辿り着いたYが自分にとって最高の伴侶だと確信できるようになった今だからこそ、自分の過去を思い出しても恥じることがないのです。
その意味では、過去の女たちとの恋愛劇を単に振り返るのではなく、今のYに辿り着くまでの道程を自分自身で確認する旅なのです。ブログを書いていた当時は、まったくそのような意識は皆無でした。そして、その旅に付き合ってくれる人が少しでもいるのは、とても嬉しいことです。
日記というものは自分だけしか目にしないのであれば、ほとんど存在しないに等しいものです。路傍に落ちている石ころに譬えてみましょう。もしその石ころを水面に向かって投げれば、それがどんなに小さく軽いものであっても、水面には必ず波紋があらわれます。それはすぐに消えていくかもしれません。でもそれを投げなければ決して波紋が生まれることはありません。
言葉というものは、別の誰かの行動を変えることがなくても、誰かの心に波紋を投げかけます。私の書いている記事も、誰かにとっては無意味でも、別の誰かにとっては何らかの意味を持つことがあります。それが自己表現の本質だと思います。テーマが地球規模の問題であっても、日本の政治であっても、そしてごくごく個人的な恋愛であっても、いったんそれが水面に投げられさえすれば、必ず波紋を描くのです。
大きなメディアを使って自己表現すれば、良きにつけ悪しきにつけ、それは大きな波紋を呼ぶことがあります。過去にそのような経験をしたことはありました。ブログやnoteでは、ほんの一握りの人にしか波紋は投げかけられないでしょう。でも何もしないよりは余程意味のあることだと思います。
恋とか愛とか・・・それぞれの個人の人生において、それはどれくらいの大きさなのでしょうか?どれくらいのウエートを占める問題なのでしょうか?私には他人の心の中を覗くことはできないので想像もできません。
でも自分の心の中は自分で分かっています。私自身の後半生において、恋愛、というか伴侶探しは、とても大きなイシューでした。現役を退く頃からの自分にとって、他の何よりも大きなウエイトを占める問題だったと言っていいでしょう。
自分自身の経験したことがどんなに小さな石ころのようなものであっても、地面から拾って投げてみたくなるのです。世の中に大きな波紋を描く大きな石を持っている人への、ちょっとした嫉妬があるのかもしれませんけど・・・

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