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                                      産経ニュース

 

小屋番が在職中に起こった

重大事故のひとつ ・・・

 

 

                                 朝日新聞

 

 

 

 

 

 

 遺族の決意が国を動かし、

事故調組織を実現させる

信楽高原鉄道事故30年

 

産経新聞 2021年5月13日(木)

20時00分配信

 

犠牲者42人を出した信楽高原鉄道事故の現場=平成3年5月14日 

 

滋賀県信楽町=現・甲賀 ( こうか ) 市=で平成3年、信楽高原鉄道 ( SKR ) とJR西日本の列車が正面衝突して乗客ら42人が死亡した事故は14日で発生から30年となる。

当時、鉄道事故の原因を究明する専門の調査機関はなく、遺族らは 「 鉄道安全推進会議 」 ( TASK ) を設立。現在の運輸安全委員会の発足につなげたほか、事故遺族を支援する制度も充実させた。TASKは一昨年、役目を終えたとして解散したが、安全の指針として社会に示したものは大きい。

( 野々山暢、中井芳野、花輪理徳 )

 

 

                                                               正面衝突により大破した車両 

 

 

■ 鉄道安全推進会議 ( TASK ) を設立

 

《 事故に奪われた命はかえってくるものではないが、事故の悲惨な犠牲

  を将来に生かすことはできる 》

 

5年8月に発足したTASKの設立趣意書には、鉄道事故調査の専門機関を求める遺族らの強い決意が記されている。その8カ月前、旧運輸省が公表した事故の報告書はわずか12ページ。到底、遺族が納得できる内容ではなかった。

 

事故はなぜ起きたのか。直接原因は、信楽駅で信号が赤のまま変わらないトラブルが生じたのにSKRが規則通りの対応をしないまま列車を出発させたこと。JR西の運転士も、列車がすれ違える唯一の場所だった待避線にSKRの列車がいなかったことを分かってはいたが、青信号に従って漫然と運行を続けた。

 

背景要因もあった。ずさんな安全管理だ。両社は法律に基づく届け出をせずにそれぞれの信号システムを変更。当日のトラブルを生んだ。事故前にも3回、信号トラブルが起きていたが、原因究明や再発防止の行動を取らなかった。

 

両社間の連携不足、安全意識の欠如 ・・・ 。組織的背景が複合して起きた事故。しかし、運輸省の調査は、運転が規則通りに行われたかどうかに焦点が絞られた。

関西大の安部誠治教授 ( 交通政策論 ) は 「 なぜ現場がルール違反をしたのか。再発防止にはその背景までも解明することが重要だが、その観点は全くなかった 」 と指摘する。

 

遺族らは事故翌年、独立組織として事故原因を調査するアメリカのNTSB ( 国家運輸安全委員会 ) を訪問し、専門機関の必要性を確信。その後もヨーロッパを視察したり、ほかの鉄道事故の被害者らから状況を聞き取って独自の観点から事故原因を考察した意見書を作成したりしながら、運輸省への訴えを続けた。

 

■ 運輸安全委員会へつながる

 

国は当初、「 飛行機や船の事故は場所を特定することから始まり、難航する。鉄道はレールの上。わざわざ調査機関は必要ない 」 といった説明を繰り返していたが、TASK元副会長の国府 ( こくふ ) 泰道弁護士は 「 次第に訴えに耳を傾けるようになった 」 と振り返る。そして事故から10年後の13年10月、航空・鉄道事故調査委員会が発足。同委員会は20年、権限を大幅に拡大した運輸安全委員会となった。

 

13年以降、運輸安全委員会は鉄道事故だけでも320件を調査。調査は事故原因を明らかにするだけではなく、乗客の生死を分けた状況から座席や設備の問題を分析する 「 サバイバルファクター 」 なども加わった。

 

乗客106人が死亡した17年のJR福知山線脱線事故の調査では、JR西への情報漏洩 ( ろうえい ) が発覚したが、その反省から、調査の途中経過の公開範囲を拡大し、被害者への情報提供を強化する事故被害者情報連絡室が新設された。

 

安部教授は 「 遺族らが求めてきたことは一定実現された。だが、安全の追求に終点はない。より良い調査方法や報告書への執念を失ってはならない 」 としている。

 

■ 被害者支援も後押し

 

悲願の運輸安全委員会が発足する2カ月前の20年8月。当時TASKの会長だった遺族の吉崎俊三さん ( 故人 ) は、75歳の高齢ながら群馬県の 「 御巣鷹 ( おすたか ) の尾根 」 へ初めて登った。520人が死亡した昭和60年の日航ジャンボ機墜落事故の慰霊登山。「 事故は違っても痛みは同じ 」。 ほかの事故遺族の悲しみに寄り添う姿は、TASKの理念を象徴していた。

 

30年前、信楽高原鉄道事故の遺族は家族の安否を知るため、現場や病院をさまよった。鉄道会社や国は説明を求めてもほとんどが門前払いだった。「 被害者を均等にサポートする仕組みが必要 」。事故調査機関の設置に並ぶTASKの目標となった。

 

「 国に被害者支援も自分たちの仕事だと理解させることが第一歩。そのために手をつなごう 」。信楽事故の遺族の言葉に共感し、TASKに参加したのが、花火大会の見物客11人が死亡した平成13年の兵庫県明石市の歩道橋事故で次男を亡くした下村誠治さん(62)。下村さん自身も行政や警察の対応に憤りを感じていた。歩道橋事故では情報の乏しい中で複数の病院を回った揚げ句、遺体安置所で子供と対面した夫婦もいたという。

 

下村さんはTASKの役員として 「 被害者の心情に共感して寄り添う支援 」 を求めて奔走。国土交通省に要望書を提出したり、職員に被害者支援の必要性を訴えかけたりした。中華航空機墜落事故 ( 6年 ) やJR福知山線脱線事故 ( 17年 ) など多くの事故遺族とも連携を深めた。その結果、国交省は21年度に被害者支援の検討会を立ち上げ、24年、国交省は検討会のまとめを受け、「 被害者らに寄り添う 」 ことを基本とした 「 公共交通事故被害者支援室 」 を設置した。

 

■ 「 被害者に寄り添う 」 組織の設置

 

同室は約70人の職員が事故の被害者からの相談を一元的に受け付け

、安否情報の収集や、補償制度の紹介などを担う。15人が死亡した28年の長野県軽井沢町でのスキーバス事故では現場に近い事務所に臨時の窓口を設置し、継続的に被害者の支援にあたった。

 

一方、同室を周知するために配布されるカードについてJR福知山線脱線事故の負傷者らと意見交換した際は、「 見た目を柔らかくすべきだ 」 などの指摘を受け、一部文章を改めた。同事故で次女が負傷した三井ハルコさん(65)は 「 国の職員が、被害者と一緒に机を囲み、未来の支援のために意見を聞こうとする日が来るなんて思ってもみなかった 」 と話す。

 

「 TASKの一員であったからこそ、悲しみに押しつぶされそうになったときも 『 将来の安全のために 』 と自身を奮い立たせることができた 」 と下村さん。遺族らの思いや活動が積み重なり、TASKは事故の遺族や被害者支援のあり方に大きな足跡を残した。

 

 

 

 

■ 信楽高原鉄道事故 平成3年5月14日午前10時35分ごろ、滋賀県信楽町 ( 現・甲賀市 ) で、信楽高原鉄道 ( SKR ) の列車とJR西日本の臨時列車が単線上で正面衝突。乗客ら42人が死亡し、600人以上が重軽傷を負った。

 

大津地裁は12年、業務上過失致死傷罪などでSKR側の3人を有罪とした。JRの運転士らは不起訴となったが、一部遺族が起こした民事訴訟で大阪地裁は11年、事故原因は 「 両社による複合的な人為ミス 」 としてJR西の注意義務違反を認定。大阪高裁もJR西の控訴を退け、判決が確定した。

 

SKRは単線 ( 貴生川 - 信楽 ) を折り返し運転していたが、当時信楽町では世界陶芸祭が開催されており、輸送量向上のため、途中ですれ違える待避線を設けてJR西の列車が直接乗り入れられるようにしていた。

 

 

 

 

 

 

42人犠牲 信楽高原鉄道事故きょう30年

遺族 「悲劇繰り返さぬ」

 

京都新聞 2021年5月14日

6時30分

 

事故現場に建立された犠牲者追悼慰霊碑の前で手を合わせる遺族(10日、甲賀市信楽町黄瀬)

 

 

 

 

滋賀県信楽町 ( 現甲賀市 ) で1991年に起き、42人が犠牲になった信楽高原鉄道 ( SKR ) とJR西日本の列車の正面衝突事故は14日で30年を迎える。供養のため、遺族は真実を求めて法廷で長く争い、悲劇を繰り返さないと鉄道安全に尽力してきた。今、高齢となり、事故現場から足が遠のいてはいても家族への思いはあの一瞬で止まったまま。「 亡くなった娘は今も心の中にいる 」 「 一生忘れられない 」 - 。 悲しみは今も癒えない。

 

「 『 信 ( のぶ ) ちゃん、今日も一日よろしくね 』 と毎朝ご仏壇に手を合わせている。私にとっては生きていて毎日会話を交わす相手 」。 長女の信子さん=当時(26)=を亡くした臼井泰子さん(78)=京都市右京区=の30年続く習慣だ。事故の日のことは今も鮮明に覚えている。出勤する娘を 「 行ってらっしゃい 」 と送り出した朝。夕方、体育館に安置された遺体と対面した際の現実感のなさ。

 

夫の和男さんは他の遺族らと93年に鉄道安全推進会議 ( TASK ) を結成し、会長として鉄道の安全対策強化に奔走。2001年に航空・鉄道調査委が発足した。しかし和男さんが亡くなった2カ月後の05年4月、107人が死亡する尼崎JR脱線事故が起きた。「 主人の頑張りは何だったのかと一番つらかった 」 と振り返る。

 

体調を崩し、3年ほど信楽の事故現場を訪れていない。「 家で祈るしかできないが、自分たちのような悲しい経験は誰もしてほしくない 」 と願う。

 

後藤泰子さん(78)=大阪府茨木市=は、JR西の列車に乗り、信楽で開催中の 「 世界陶芸祭 」 に夫婦で向かう途中で事故に遭った。夫の正利さん=当時(51)=は亡くなり、自身は奇跡的に軽傷で済んだ。

 

親の介護と育児が一段落し、2人で思い出を作ろうと話していた直後だった。「 真面目で面倒見が良かった 」 という夫に感謝し、毎日仏壇に向かう。

 

事故現場脇の慰霊碑前で毎年命日に営まれる追悼法要には5年ほど前から参列していない。「 事故を知らない人も周囲に増えた。今は静かに暮らしている 」。遺族会世話人代表だった吉崎俊三さんら鬼籍に入る遺族もいる。「 当事者である限り事故は生涯忘れられないが、今は今でいろいろなことが起こる。節目かな 」 と話した。

 

追悼法要では年々遺族の参列がなくなり、新型コロナウイルス感染拡大もあって、昨年は初めて遺族が姿を見せなかった。JR西によると、今年も出席は予定されていないという。それでも今月10日の慰霊碑前には県外の遺族男性の姿があった。「 人がいない時に静かに拝みたい 」。そっと手を合わせた。

 

 

 

 

 

 

 

あの日から30年、

犠牲者42人の冥福祈る 信楽列車事故で法要、

コロナ感染対応で追悼は言葉にせず

 

京都新聞 2021年5月14日(金)

11時42分配信

 

信楽高原鉄道の列車が脇を走る事故現場近くの慰霊碑前で営まれた追悼法要 

(14日午前10時38分、甲賀市信楽町黄瀬) 

 

 

 

 

信楽高原鉄道 ( SKR ) とJR西日本の列車が正面衝突した事故から30年を迎えた14日、犠牲者の追悼法要が滋賀県甲賀市信楽町黄瀬の事故現場脇にある慰霊碑前で営まれた。遺族1人と鉄道事業者ら関係者6人が犠牲者42人の冥福を祈り、悲劇を繰り返さないことを誓った。

 

 

犠牲者42人の冥福祈り、手を合わせる関係者 

 

法要は午前10時半に始まった。黙とうの後、80代の遺族男性や両社社長が花をささげた。僧侶の読経の中、SKRの列車が警笛を鳴らして傍らを走っていった。新型コロナウイルス感染症対応のため、両社長の追悼は言葉にせず、慰霊碑にささげるだけとなった。

 

 

 

 

法要後、報道陣の取材に対し、SKRの正木仙治郎社長は 「 事故を風化させず安全運行を続けたい 」 と話した。JR西の長谷川一明社長は 「 コロナ禍で厳しい経営状況だからこそ安全安心を最優先にしたい 」 と強調した。

 

今年は昨年に続き、コロナ感染防止のため参列者を絞って執り行った。三日月大造知事や岩永裕貴市長は法要前に訪れて手を合わせた。

 

事故発生から30年が経過し、当時を知る社員がSKRにおらず、JR西も減っており、記憶や教訓の継承が懸念されている。コロナ禍でJR西は2021年3月期連結決算で純損益が民営化後最大の赤字、SKRも20年度決算で収支の悪化が見込まれており、両社の安全対策投資の確保も課題となっている。

 

事故は1991年5月14日午前10時35分に発生。SKRの普通列車と、同町で開かれていた世界陶芸祭に合わせてSKR線に乗り入れていたJR西の臨時列車が正面衝突し、乗客42人が死亡し、614人が負傷した。

 

 

 

 

 

 

 

事故の教訓、次世代へ

信楽高原鉄道事故30年

安藤仙一朗、鈴木智之

 

朝日新聞 2021年5月14日

12時15分

 

事故現場近くを走る信楽高原鉄道の車両 

= 2021年5月14日午前、滋賀県甲賀市 

 

滋賀県甲賀市 ( 旧信楽町 ) で1991年、信楽高原鉄道 ( SKR ) とJR西日本の列車同士が正面衝突し、42人が死亡、628人が負傷した事故から14日で30年を迎え、両社は現場近くで追悼法要を開いた。事故を知らない世代が増えるなか、両社が安全第一の教訓を次の世代に引き継げるかが今後の課題となる。

 

法要は午前10時半から始まり、SKRの正木仙治郎社長 ( 甲賀市副市長 ) とJR西の長谷川一明社長らが参列。黙禱 ( もくとう ) し、慰霊碑に花を捧げた。

 

正木社長は取材に 「 安全第一の教訓を鉄道関係者に伝えていきたい 」。 長谷川社長は 「 事故を重い教訓として、安全最優先の原点を将来に受け継いでいきたい 」 と話した。

 

安全最優先の教訓 継承を模索

 

鉄道史に残る大事故は、輸送力増強のため、安全対策を後回しにして列車を運行したことが引き金となった。91年3月、単線だったSKR線に待避所が新設され、乗り入れるJR西の列車とすれ違いができるようになった。2カ月後、SKRの普通列車が赤信号を無視して駅を出発。信号が赤のまま変わらなくなったためで、誤出発の検知装置が働いてJR西側の快速列車が停止すると過信した。JR西側も、普通列車とすれ違っていないにもかかわらず待避所を通過した。両列車は正面衝突した。

 

 

         信楽高原鉄道の普通列車とJRの臨時快速列車が、

       単線区間で正面衝突 = 1991年5月14日、滋賀県甲賀市

 

 

戦後、国鉄時代に発生した

数々の重大事故を教訓に、数々の運転保安設備が開発され

運転取り扱い規定や規則の改正が行われ

安全確保に向けて日々進化してきていた筈なのに ・・・

 

あまりにも旧態然とした重大事故に

運転取り扱いに従事していた小屋番には

大きな衝撃でしたなぁ ・・・

 

しかし

昨今のJR各社の社員の中には

安全意識が欠落したと思しき者も ・・・

 

如何な 重大事故でも

時が流れ、時代が変わり

従事員の世代交代が進むにつれ

 

単なる事象の一つとなって

記憶の彼方に忘れられて行くんやろかねぇ ・・・