眺望閣
小屋番が最後に訪れたんは、2022年4月17日
今は、もう
跡形も無くなってるんやろけど ・・・
日本橋4丁目の「五階百貨店」ビル、
解体工事が始まる
大阪・日本橋エリアの開店閉店情報
2025年9月22日
開発動向日本橋4丁目の 「 五階百貨店 」 ビル、解体工事が始まる
「 建物は3階建てなのになぜ『五階』なのか?」 という疑問とともに、日本橋の名物として知られていた通称 「 五階百貨店 」 ビル ( 日本橋4-14-10 ) の解体が始まった。
▲ 解体直前の五階百貨店ビル ( 8月22日撮影 )
▲ 解体工事が始まり、仮囲いに覆われた現在の五階百貨店ビル ( 9月20日撮影 )
さて冒頭の疑問に立ち返ると、「五階」の名前の由来は1888年(明治21年)に近隣で建設された「眺望閣」に遡る。眺望閣は5階建て・高さ約31メートルの展望台で、大阪初の高層建築として多くの見物客が訪れ、場内では呉服や小間物、家具、文具、玩具などさまざまなものが売られるなど、さながら現代における百貨店のような賑わいを見せていた。やがて周辺にも眺望閣への集客を当て込んだ露店などが次々と立地し、それが現在につながる商店街の原型ともなっているという。
その後、眺望閣自体は建設からわずか15年程度の1904年(明治37年)頃に取り壊されたとされるが、そのシンボルとしてのインパクトは強く、やがて周辺一帯の名称に「五階古物市場」「五階昼店」「新五階」など「五階」の名が冠されるようになり、この建物名にもそれが踏襲され現在まで残ったものである(近隣にはもう一つ、「日本橋五階百貨店」を名乗る平屋建ての建物も別に存在する)。
▲ 日本橋商店会内に掲示されている、在りし日の眺望閣と「五階」の由来について。
日本橋商店会もかつては「新五階」を名乗っていた
なお、このビルでは2019年秋に1階の空き店舗で入居者を募集する際 「 約6年間限定 」 という条件が付いていたことから、このタイミングでの解体は数年前から計画されていたものと思われる。
五階百貨店
1888年 ( 明治21年 ) 、西成郡今宮村に5階建て、高さ31メートルのパノラマタワー 「 眺望閣 」 が建設された。2階建てを超える建造物がまだ珍しかった当時、眺望閣に大勢の観光客が押し寄せることとなり、周囲には観光客を相手にする多数の露店が広がった。これら露店の賑わいを当時の流行語であった 「 百貨店 」 と組み合わせて 「 五階百貨店 」 と称するようになったのが、名称の由来である。
その後、1889年 ( 明治22年 ) には西成郡北野村 ( 現・大阪市北区茶屋町 ) に9階建て、高さ39メートルの 「 凌雲閣 」 が建設された。大阪の二大繁華街におけるシンボルタワーとして、眺望閣と凌雲閣はそれぞれ、「 ミナミの五階 」 「 キタの九階 」 と通称された。なお、眺望閣は1904年 ( 明治37年 ) ごろに、凌雲閣も昭和初期に取り壊されており、現存していない。
五階百貨店は商品が嘘のように安く手に入ることや、戦後の一時期は実際に盗品の売買を行う不心得な露店商がいたことから、「 泥棒市場 」 との異称で呼ばれたこともあるらしい。現在では日本橋商店街 ( でんでんタウン ) の一部となっており、正式な地名などには該当が無い状況になってしまっているが、建物の一角に 「 大阪名物 五階 」 と大書する建物があることや名称の誤解 ( 後述 ) から、その面影をとどめている。
五階百貨店は、その名称から5階建てビルの百貨店であると誤解されることが多い。また、旧・眺望閣の南にある3階建ての建造物に大阪名物五階と書かれていることから 「 5階建てではないのに五階百貨店というのは大阪ならではの宣伝ではないか?」 との誤解も生じているが、これらは地域の通称である 「 五階 」 を取り違えていることによる。五階は特定の建物を指すものではなく、写真の建物は 「 新五階 」 と称される五階百貨店を構成する建物の一つであり、五階百貨店のすべてではない。
Wikipedia より
すっかり解体された五階百貨店 = 2025年11月15日
工具店や部品店に無くても
五階に行けば、なんとかなる ・・・
大阪生まれで大阪育ちの ホンマの大阪人やったら
知らんモンは、居らん と言われた ・・・
戦前そして戦後の復興、高度成長期の大阪ミナミを支えた
縁の下の力持ちが
130年以上の歴史に幕を下ろした。
また 一つ、浪花の歴史が消えましたなぁ ・・・





















































































