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戦前の在日韓国・朝鮮人移入の背景
 
韓国併合 ( 日韓併合 ) 以前から朝鮮人は日本に流入し、留学生や季節労働者の朝鮮人が日本に在留していた。韓国併合以降はその数が急増した。
 
日本政府は徴兵のために労働力が不足した戦時の数年間を除き、戦前戦後を通じて日本内地への渡航制限などにより朝鮮人の移入抑制策を取ったが、移入を止まらなかった。
 
朝鮮人が日本に移入した要因として、以下の社会的変化が挙げられる。
 
朝鮮南部は人口密度が高い上に李氏朝鮮時代から生活水準が低かったため、生活水準の高い日本内地を目指した。
朝鮮内における朝鮮人の賃金は、日本における朝鮮人の賃金の約5割から7割に過ぎず、しかも、日本は、朝鮮よりもはるかに雇用機会が高かったため、朝鮮人は日本に渡った。
朝鮮人の賃金よりもさらに低賃金の中国人が1882年以降朝鮮に移民し、次第に朝鮮人と競合するようになり、朝鮮における朝鮮人の失業をもたらした。
 
朝鮮における農業生産体制の再編 

併合後の朝鮮では農村を含めた経済システムが再編され、特に1910年から1918年にかけて行われた土地調査事業によって植民地地主制が確立し、日本人地主と親日派朝鮮人地主へと土地所有権が移動したといわれ、その結果、土地を喪失した多くの農民が困窮し、離農・離村したことが日本への移住につながったとしている。
また、産米増殖計画による米の増産と日本への過剰輸出が、朝鮮半島で1人当たりの米の供給量激減と米価の高騰を招き、小作農などの人々を困窮させ土地の収奪・農民の没落が進行し、日本への移住に拍車をかけたとする論もある。

1985年に土地事業当時の公文書が大量に発見されてからは実証研究がなされるようになり、2004年には 「 日本による土地収奪論は神話である 」 と李栄薫が主張している。
山本有造によると、土地調査事業によって所有者が判明せず、日本に収められた朝鮮の農地は全体の3%前後 ( 多くても10% ) であるとしている。
李栄薫によると、朝鮮全土484万町歩の土地の大部分が民有地、残りの12.7万町歩が国有地とされ、国有地も1924年までは日本人ではなく朝鮮人の小作人に有利な条件で払い下げられたもので、土地収奪論は1955年に東京大学留学中の李在茂による創作としている。
 
日本における資本主義の発展によって、第一次世界大戦による好況下、労働力需要が高まったこと、人件費の高騰を抑え、国際競争力の源泉である低賃金労働力として朝鮮人労働力を必要としたことが挙げられる。これが朝鮮人の日本への移住を促進した。
特に紡績業界は、1891年を最初として、1915年以降は頻繁に、朝鮮人労働者を公募した。
紡績業界は、低賃金・長時間労働を強いられる下層労働市場であり、日本人が賎業として忌避する仕事で日本人以下の低賃金・低級な生活状態であっても、朝鮮人は粗衣・粗食で黙々と従事した為、このような稼業の労働力として必要とされるようになったとも言われる。

一般の日本人に忌避された仕事は、元々、被差別部落民や社会的マイノリティの仕事であったが、朝鮮人労働者は、それらよりも低廉な労働力として入り込み、その居住地も当初、被差別部落の中にあった。
このような貧しくて日本に流れてきた朝鮮人がいる一方で、朝鮮において「京城紡織株式会社」のように戦後まで続く大手の紡績会社を経営して成功した朝鮮人もおり、このような姿は資本主義の萌芽が日韓併合時に朝鮮で生まれたものであるとする研究者もいる。
1910年-1940年にかけて朝鮮では年平均1.3%の人口増加率を記録し、世界的に見て高い人口増加率が記録されている。
1910年-1940年にかけて朝鮮では年平均3.7%の経済成長率を記録し、世界恐慌下にあった海外とは異なり高度成長を遂げている。
日本政府は、第一次世界大戦終了後、朝鮮人流入に起因する失業率上昇や、犯罪増加に悩まされており、朝鮮人の日本内地への流入を抑制する目的で満洲や朝鮮半島の開発に力を入れた。
 
朝鮮人労働者の流入は日中戦争および太平洋戦争により増加していった。併合当初は土建現場・鉱山・工場などにおける下層労働者で、単身者が多くを占める出稼ぎの形態をとっていたが、次第に家族を呼び寄せたり家庭を持つなどして、日本に生活の拠点を置き、永住もしくは半永住を志向する人々が増えた。

1945年8月終戦当時の在日朝鮮人の全人口は約210万人ほどとする報告もある。その9割以上が朝鮮半島南部出身者であった。このうちの多くが第二次世界大戦終戦前の10年間に渡航したと考えられている。
 
この時期は兵役により不足した日本の労働力を補うため、朝鮮半島からの民間雇用の自由化(1939年)、官斡旋による労務募集(1942年)により在日朝鮮人が急増した。1939年から1945年までに在日朝鮮人の人口は約100万人増加した。
このうち約70万人は自ら進んで内地に職を求めてきた個別移住者とその間の出生で、残りの約30万人の大部分は工鉱業、土木事業の募集に応じてきた者である。
1944年9月から始まった朝鮮からの徴用は1945年3月に下関-釜山間の運行が止まるまでの7月間であり、合計人数は245人である。
 
1945年以降は、日本は戦災によって国土が荒廃し、食料不足になり占領国からの食糧援助に頼らざるを得なくなったが、戦災に遭わなかった朝鮮は日本統治時代には食料を輸出できるほどの生産性を備えるに至ったことなどから、1946年3月までに在日朝鮮人のうち140万人の帰還希望者が日本政府手配などで朝鮮に帰還したが、戦後も朝鮮からの密航者が絶えず日本の治安問題となった。また、1945年に朝鮮半島に帰還したものの、その後に動乱を逃れて再び日本に移入した者も多かった。
 
 
 
帰国と滞在
 
終戦直後の1945年8月24日、朝鮮人帰還者を乗せ釜山港へと向かった浮島丸が、連合国軍司令部の航行禁止命令により、舞鶴港への入港中、触雷・沈没して乗員約5000名のうち約550人が死亡する浮島丸事件などの事故もあったが、その後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により送還事業が開始され、翌1946年までに徴用者を中心に140万名が朝鮮半島に帰還する一方、1939年9月の「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」通達により朝鮮における雇用制限撤廃(自由募集)以前から滞在していた者を中心に約60万名が日本に残った。
GHQと日本政府は朝鮮人の引揚希望者を全員帰国させる方針であり、船便による具体的な送出人数に関してもGHQが指示を出している。また、日本国内(内地)の輸送に関しても具体的な指示が出ている。
 
GHQの計画に従い、大部分の人々が終戦後故郷へ帰る選択肢はあったものの、約4分の1が戦後も日本に定住するに至った。その後日本は戦後密航者も含めて在日の韓国への帰還を要請したが、韓国政府は消極的であり、後に日本人と在日韓国・朝鮮人双方から「棄民政策」として批判された。
 
1945年9月、在日本朝鮮留学生同盟が設立される。1945年10月15日に在日本朝鮮人連盟が設立され、1946年10月3日には在日本朝鮮居留民団(現在日本大韓民国民団)が設立される。
 
戦後、「朝鮮人には民族教育が必要である」との主張に基づき、各地に朝鮮人学級、続いて朝鮮人学校が設置された。これに対して1948年に、GHQの意向により朝鮮学校閉鎖令が出され、阪神教育事件に発展した。朝鮮人が兵庫県庁に突入して閉鎖令を撤回させるなどしたため、アメリカ軍は非常事態宣言を出して朝鮮人1,700人を逮捕した。王子朝鮮人学校事件など朝鮮人学校をめぐる事件も続発した。
 
その後も朝鮮人の引き揚げは継続され、1959年に外務省は、朝鮮への国民徴用令適用による朝鮮人徴用は1944年9月から下関-釜山間の運行が止まる1945年3月までの7か月間であり、また、戦時中に徴用労務者として来た朝鮮人の内、そのまま日本に留まった者は1959年時点で245人に過ぎず、日本に在住している朝鮮人は、「大半が自由意志で来日・在留した者」とする調査結果を発表している。
 
 
 
戦後の密入国
 
戦後、多くの朝鮮人が日本国内へ密航した。その原因・動機は朝鮮半島の戦乱・虐殺からの逃避に加え、家族との再会、生活苦といった人道的配慮を要するものであった。
特に政情不安に関して、1948年の済州島四・三事件がある。韓国政府による済州島民への虐殺は日本への難民を大量に生んだ。
野口裕之(産経新聞政治部専門委員)は、韓国歴代保守政府及び過去の暴露を恐れる加害者の思惑から済州島四・三事件の真相は葬られているが、不都合な狂気の殺戮史解明にまともに取り組めば、事件で大量の密航難民が日本に押し寄せた正史も知るところとなろう、また在日韓国・朝鮮人の中で、済州島出身者が圧倒的な割合を占めるのは事件後、難民となり日本に逃れ、そのまま残った非合法・合法の人々数千人が原因である」と述べている。
 
1950年に始まった朝鮮戦争時にも韓国政府による拷問や独裁から逃れるために密航者が生み出された。
経済的理由から密航して来たものとしては、例えば1947年に孫正義の祖父・父ら孫一族は日本に密航船で入国しており、マルハン韓昌祐会長は「韓国にいても稼げないので密航して来た」と2005年のテレビ番組で発言した。作家のキム・ギルホは「1973年、食べていくために日本行の密航船に乗った」と証言した。
 
密航は対馬を起点に[136]漁師、ブローカー、日本国内の密航支援者が手引きしていたとされており、入管当局に見つかれば収容、強制送還の対象となった。
1950年頃の密航船の監視は海上保安庁が当たっていたが、敗戦国の影響のため武装ができず、一方で朝鮮半島からの密航船は武装をしており、密航船の2割ほどしか検挙できない現状を当時の新聞は伝えている。また、韓国政府は日本が摘発した朝鮮人密入国者の受け入れを拒否するため、強制送還できずに収容所に入れていたが、韓国政府は李承晩ラインにおいて韓国が抑留した日本人の返還条件として密入国者を収容所から解放するよう要求した。
これら戦後まもなくして来日した彼らは戦後の混乱により、本来は対象者ではなかったが特別永住資格を得た。
 
『産経新聞』1950年6月28日には、「終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているとさえいわれる」という記事が掲載されている。
 
元秀一は、外国人登録証を所持して日本に合法的に居住できる朝鮮人と密航した朝鮮人で在日朝鮮人が形成されており、後者は主に済州島出身であり、これは済州島出自の在日朝鮮人が大阪市生野区を中心に9万人にのぼることと無関係ではなく、また、大阪市生野区を中心に偏在する在日朝鮮人の縁故を頼っての密入国も多く、大規模な密航は、日本統治時代、戦後の済州島四・三事件、ベトナム戦争時の徴兵逃れの三度にわたり、ほか離散家族の再会・同居、思想的に拘束を受けない日本の大学への留学、病気治療なども移住の理由にあるとしている。
 
 
 
朝鮮戦争
 
1950年6月25日に朝鮮戦争が始まると共産主義者の処刑(保導連盟事件)を実行している韓国への帰国を躊躇するようになった。
6月29日、在日本大韓民国居留民団は義勇兵を募り6万名の志願者から選抜した2万名を韓国に送りだすことを発表した。韓国人647名、日本人150名の志願者が集まったものの、当初は韓国政府が受け入れを拒否するなどの事態があったが、後に占領軍が必要としたため、韓国人志願者644名を派遣した。
 
1952年4月28日、連合軍の占領下にあった日本はサンフランシスコ講和条約の発効により主権を回復する。カイロ宣言に「奴隷状態にある朝鮮人に留意し朝鮮を独立させる」とあるように、朝鮮人は日本から独立した朝鮮半島国家に帰属する民族であることとなり、結果的にこの時点で彼らは日本国籍を喪失した。ここで国籍を喪失した者の範囲は、日本国との平和条約発効時(1952年4月28日午後10時30分)において、朝鮮戸籍令の適用を受けていた者である。
 
 

帰国運動
 
戦後、在日韓国・朝鮮人の帰国運動が盛り上がったのは、1958年の日本・北朝鮮赤十字会談の開催からである。「千里馬運動」で労働力を必要とした北朝鮮政府と、当時、生活保護受給者の半数を占めていた在日問題の解決を目指す日本政府、さらには在日韓国・朝鮮人にとって、それぞれの思惑が一致した結果とされる。
 
また、共産主義者を弾圧している韓国に帰還することが困難な者にとっても北朝鮮は希望の地であった。このとき、帰国運動に参加した在日韓国・朝鮮人のほとんどは朝鮮半島南部、すなわち韓国政府が支配する地域の出身者であった。このこともまた、韓国政府による「棄民政策」として、後に様々な方面から批判されている。
 
日本における在日韓国・朝鮮人団体である在日本朝鮮人総連合会は、北朝鮮政府の指示のもとで在日韓国・朝鮮人の『地上の楽園』北朝鮮への帰国を、強力に勧誘・説得する活動を展開した。当時の韓国は朝鮮戦争による荒廃のため世界最貧国であったが、北朝鮮は国際協調によって共産諸国の支援を受けて発展を遂げ、在日朝鮮人へも支援金を送るほどであった。
 
在日韓国人の犯罪発生率が日本人の十数倍に上ること、犯罪者や密入国した韓国人の送還を韓国政府が受け入れないこと、摘発された密入国者を日本国内へ解放するよう韓国政府から要求されるなどの治安上の問題や、在日韓国・朝鮮人の生活保護予算捻出に苦慮していた日本政府は、このキャンペーンに応じた。
 
韓国はこれを「北送」と呼んで非難し、韓国居留民団は「北送事業」への反対運動を展開した。韓国政府は日本に工作員を送り込み、テロ活動によって帰還事業の阻止を図った(新潟日赤センター爆破未遂事件)。また、「在日韓国・朝鮮人は強制連行された人々である」と主張するようになった。
 
 
 
冷戦と日韓基本条約
 
1965年6月、日本が韓国を朝鮮半島唯一の国家として承認する「日韓基本条約」および在日韓国人の法的地位について定めた「日韓法的地位協定」などの付随協約が結ばれ、韓国籍申請者にはそれまで暫定的に与えられていた在留資格よりも優遇された「協定永住」資格が与えられ、永住が法的に保証された。

条約批准書交換に際し朴正煕韓国大統領は談話を発表し、この中で在日同胞の苦労の原因を韓国政府の責任とし、それまで在日同胞の一部が共産主義に駆り立てられ加担するようになったことも大部分韓国政府が十分保護できなかった責任であるとした。

さらに、朝鮮総連系に加担した者たちの過去の行為を不問に付すとともに、韓国政府による在日同胞の安全と自由についてより積極的に努力し可能な最大限の保護を行うことを約束、また、これまで分別なく故国を捨て日本に密入国を試み抑留され祖国のあるべき国民になれなかった者に対しても、新しい韓国民として前非を問わない姿勢を示し、再びこうした分別のない同胞がいなくなることを希望した。

一方北朝鮮は、日本との国交樹立は「二つの朝鮮」「分断の固定化」につながるとして日朝国交樹立に強く反対したため、北朝鮮を支持する在日朝鮮人の法的地位は変わらなかった。
 
 
 
韓国の留学・旅行自由化と新・旧在日韓国人
 
韓国では留学自由化が1980年の初めに実施され、それ以降に来日した韓国人はニューカマーと呼ばれるようになる。

1987年には45歳以上の海外旅行を自由化、1988年のソウルオリンピックを経て1989年には完全自由化された。「漢江の奇跡」と呼ばれる韓国経済の発展に伴い人々の往来も活発化、さらに2005年、愛知万博を期に日本政府は観光や商用目的など90日以内の短期滞在について査証を時限付きで免除、その後恒久化した。

また、ニューカマー在日韓国人が増え続けているのに対し、オールドカマーである特別永住者は死去と帰化で減少傾向にあるが、元々オールドカマーにはニューカマーを民団などの在日組織から排斥する傾向も見られ、そのためニューカマーが「在日本韓国人連合会」を組織するなど新・旧在日韓国人間で確執もみられる。
 
 
 
現在
 
今日、在日韓国・朝鮮人は、日本で民族的アイデンティティーを重視した独自のコミュニティーを形成する者、新たに形成することを志す者、帰化する者、日本人配偶者を得て同化する者、それらの中間的立場や混合的立場をとる者、と多様な生き方を見出している。
 
在日韓国・朝鮮人の諸組織・知識人・朝鮮学校からは、民族教育の必要性が主張されてきた。日本側の受け入れも進み、実際に本名を名乗り自らのアイデンティティーを明確にすることで、在日韓国・朝鮮人が社会の中で認められるようになっている。これに呼応して、行政側の対応にも変化が起こりつつある。