今朝のルイ君。朝方に私の横で…

先のブログで最後の方に全く経験のない私が、戦争の恐怖について少しだけ、然し滾々とお話した事からの続き。。

明け方まで田原総一朗さん司会の『朝まで生テレビ!』で戦争問題中心に討論されるのを、針と刺繍枠を握りながら最後まで聞いていた。
父は戦争に従軍し運良く帰還できた人の中にいた。

若い日に奉公していたのが現在の天神橋筋商店街の中で営む大店オオダナで商うのは洋装店。
従軍の期間の後先、もしくは奉公中なのかそんな事まで母の話には出て来なかった。

その頃奉公に上がっていたのが、
ダンさん
ごりょんさんは女将オカミさん (他人さんの奥さんを呼ぶ時に使う意味もある)
いとさんはお嬢さん    使用人からみて長女
こいさん(小いさんかな?)末娘
の世界。

当然の事、算盤ソロバンを弾かなければならない。
その算盤を一日も早く習得したいが住込みの奉公人に
そんな時間も就寝時の照明も自由な点灯など許される訳もなく夜、懐中電灯を持ち込み薄い布団を頭からかぶり音が出ないようにそっと稽古した。
読み書きも独学で勉強したと聞いた。
ろくろく学校へは行けていないのに、ローマ字も読めたし書けた。
要はやる気で学ぶ根性のある人。
そんな努力は報われて暖簾分けも叶い徳島に屋号と同じ名前で、店を出す。

ホントに前後が全く不明で辻褄が合わないかもと、繋ながりを考えながら記す。

祖母はやり手の商売人で色んな物を手広く商い、総檜の店兼家を建てた剛腕の女性だったが信頼する人に勧められた取引で相手方に裏切られ全てを失ったとか聞き及ぶのだが。
20人位は雇い人がいたとい言う事も、檜の建具を糠と牛乳で磨いたとかも何度も聞いた。

そして母と結婚する。
子煩悩な父が最初に授かったのは長男でした。
母曰く、どこへ行っても可愛いと覗き込まれ病院では、その頃あったらしい生後何ヶ月の赤児による健康優良児のコンクール、そこへ推薦されて出たと言うのだが。。
どの子の親も我が子は可愛いと思う、イヤ 本当に可愛い。。可愛い ハズだ…
だが、当日慣れないバス旅でのバス酔いで顔は青くなり吐き戻し等で可哀そうで、出場など二の次で早々に出場辞退して帰ったのだと。

しかし、父の命より大事であったろう兄は僅か10ヶ月で流行病ハヤリヤマイの麻疹ハシカにかかり天に召された。
村で一番最後に感染した最後故にきつかったらしいと聞いた。

熱などで幼子オサナゴがグズるのが可哀そうでネンネコに背負い外に出た祖母。
後で知る、外気の風に当ててはならんかったんやと母…
その頃のその話が、医者によるものか、母の悔いによるものか私には正しい事は分からない。

両親や祖父母の嘆きは、生き延びて戦地から帰り時を得て嫁を貰い、遅くに授かった宝物の男の子を亡くした喪失感は想像も出来ない、喪失感と虚無感キョムカンに襲われたのは伝え聞きで記す私も胸が締めつけられる。
                                            虚無感→全てが虚しく感じられる感
そして、数年後に私が産まれたのです。
母がいつだったか昔話のついでに語った。

私が産まれた日に、
父は兄の生まれ変わりが生まれてくるだろう事を信じて疑わなかった。
なのに、なのに私が女の子が産まれてきた。
ショックで背中を向けて泣いたらしい。
『3日位顔を見にこなかったんやで』と。

でも、私はきっと父はそっと見に来たと思ってる。
見に来ないはずがないと信じてる、それくらい子煩悩な父でした。

その父の軍隊でのお話。
父からは戦争に関わる話は、爪の先ほども聞いた事がない。
よく、冗談を言い手先の手品でからかって喜ばせてくれた父。
自分の辛い時代を子供達に聞かせたくなかったと思う。
なので、全て母から聞き伝えのお話です。
父は母には話していたんだ。

父は心の内に秘める人で、苦しくても苦しいとか弱音を吐く人では無かった。
以前のブログで書いたが毎日5合の米を恥ずかしがらずにその頃は二匹の子豚を前後に乗せて買いに行く。
店が行き詰まりその日頂く米の分を買いに行くのだが、母は
『うちゃ~恥ずかしいてよういけん』と嘆く。
すると父『よっしゃおいらが行くわ』と二人の子供を自転車に乗せて買いに行くのだった。

いつもおおらかに家族を包んでくれていた、本当に母を信頼して愛していたんだなと、母から聞かされた軍隊の話で今更やけどその弱音を吐ける母のいた事が嬉しい。

父の軍隊での事。
その頃、軍隊で使用する車はジープ、父は車の整備が出来た。
その為、整備係を任されていた。
上官の人達は、綺麗に整備して磨き上げたその車で夜な夜な出掛け、泥濘ヌカルみなど何のそので舎に戻り綺麗にしておけは、首を軽く横に軽く振るだけで承る。

ある日の事、余りに頻繁に遊興に使い泥だらけの車に怒りがこみ上げて、整備の時にエンジンがかからない線を一本外す細工したらしい。

翌日、動かない車に怒り心頭の上司は、父を思い切りゲンコツで制裁。。
『点検不十分はたるんどるのだ!!!』この言葉は私の想像
左耳からのゲンコツに倒れ込んだ。
平手でなくゲンコツで殴り倒す残酷さ。
父の鼓膜は破れ、それ以来、左耳は不自由になったらしい、戦時中の事は何一つも話さない、父の耳が聞こえ無い事を知ったのは、私が成人して随分経った頃に母から聞いたのでした。
聞こえない事を露ほども知らなかった。
鼓膜は何かの不注意で突くような事故ならばやがて再生し塞がるらしいが裂けた場合は修復は不可能みたい。
戦争とは
敵との戦いよりも、もしかするともっと過酷な上下関係があり上官の器量で情のある人か、自己中な人かで大いに環境が変わるのではないかと想像した。

父の弟は上の位にいたという。
父の弟の事。
弟が上の学校へ進むのをどんな思いで、見ていたのだろう。
只、親が長男である父の事を疎ましく思って差別したのではなくて、悪魔で傍でいて欲しい存在で我儘でのようだ。

優秀な弟の夢は駅長。
その頃の若者の夢の一つが駅員さんに憧れたらしい。
我が父は母親(祖母)が胃が弱く始終差込み、胃を押さえてろ、あーをしろ、こーしろと手元から離さず学校は始終休みがちだったらしく、逆に毎日登校出来る優秀な弟が羨ましく映ったはず。
士官学校へも難関をくぐり抜け海軍へ従軍、黒い紙のアルバムに載る叔父の軍服姿は白い軍服に腰にはサーベル付帯してた。
父の弟(叔父)は見た事はない。
セーラー襟と後ろリボンの帽子姿と、もう一枚はサーベルを腰に差し制服姿で立つ凛々しい軍服姿でしか知らない人。 

海軍の軍服   ネットより
叔父はもう少し細面であったと覚えている。
引っ越し作業の中で私の一存で古い写真の全てを捨てた。
残しておくべきか迷いはあったが、広い家ならともかく、私の次に引き継ぐ者が何十年後か近い未来かに捨てるに捨てられない形見分けになるからだ。母に相談すると捨てんといての答えは間違いないのだが。。
何処まで残しておくべきかNHKのフアミリーヒストリー等で放送される様な有名人もいないであろう我が一族、故人の許しも何もないまま、何かの偶然が重なり人目に晒されるのが私は嫌だと思った。
何とも自分勝手な思いだがその時に自分の写真も処分した。
今、手元にあるのはSDカードとPCの中の写真、旅の思い出等含めると相当あるのだが見るのも消すのも至って簡単。
相当な量だが、消去ボタン押すと綺麗に消え去るので理由はそれだけです


軍艦     yahoo知恵袋よりお借りしました。

父は亡くなるその時まで、弟の話は名前すら口にしなかった。
弟だけじゃない、初めて出来た宝物の長男の事も後に授かった唯一無二の次男の事も一度も父の口から、悲しみも苦しみも愚痴も一切を聞く事は無かった。

そして両親は自分達が生きてる限りはと、年忌を弔う。
お寺さんが普通は年忌明けで切り上げる方の多い中、故人に対して素晴らしい供養だと、読経の後の法話でご住職が言い添えたのを傍らで聞いていた。
私は母の信心深さと徳が成した結果やと、今さらやが思う。父は母に従い口は出さない。

叔父(父の弟)のこと。
祖父も祖母も昔の無学の人で、我が子の勇姿はどれだけの誇りであったろう。
最前線のサイパン島(違うかも知れない)で飢餓状態で行き絶え絶えでどうにか助け出され帰還出来た。
海の上での撃沈ではなく陸上へ上がって敗戦の中での飢餓。
きっと栄養失調より先に病があったのだろう。
樹木の皮、枯れかけの雑草にチョロチョロ這う虫を口にする状況に土も食べたと聞いた。

骨と皮の重症の栄養失調状態で横たわり、水も濡らすくらいにしか与えられない治療中にやっと口が聞けかけたその矢先、無知と言う名の罪なき罪。

その時、母親であった祖母は水さえ与えられない身体の息子に、病院へ生まれたての卵(生卵)を隠しながら持参し内緒で与えたらしい。
一日も早く良くなるよう栄養を与える為に。
無理もない親の心。
叔父はどれだけ美味しかっただろうと胸が詰まる私。

そして、容態が急変の後帰らぬ人に。
しかしこの事は母の想像の産物かも知れないし、重体であった叔父は助からない状態であったのかも、何がどれが真実なのか、だあれも知らない。私が生まれる随分前の古い時代の医療事情など分かるはずも無い。

その叔父に内閣総理大臣から勲章と立派な菊の御紋の配された賞状と勲章が授与され家を売却するその準備の日まで鴨居の上に掲げられていた。勲章は仏壇の引き出しに。
授与者の位置に内閣総理大臣 佐藤栄作とあった。
賞状も勲章もいらぬ息子を返せと思ったろう親の思い。

文献より
先の大戦では西太平洋の島々を含むアジア全域で戦闘が行われた。戦争末期には南方戦線などで過酷な戦いが繰り広げられ、兵士たちは食料が枯渇した中、餓死との境界線でジャングルをさまよったり、負傷や感染症に苦しんだりしながら仲間の支えで敗走した。体験者の証言からは、戦場の生々しい実態が浮かび上がってくる。
「戦病死者」。つまり「戦闘」ではなく、戦地における日々の生活の中で亡くなった。敗戦色が濃厚になるにつれ、兵士たちは戦闘どころではなく、生きることに必死だった様子がうかがわれます。
戦病死の中には、「餓死」が大きなウエイトを占めていた。と書かれている。


母方の叔父、母の兄の勝マサルのあんにゃ(長男)の戦争。
今、綴りながら思う、今迄書いてきた事は全てが母との会話で伝え聞いた事。
語り継ぐ意味
聞いていなかったならば、今こうして伝えることも出来ない。
私は戦後随分経ち生を受けた言わば父の晩婚で授かった子。
戦争と言う名の残酷な重罪を今、平穏な毎日を送る上で知らなければ、知って置くべきだと考えて初めて綴る。

勝のあんにゃは物凄く字が美味かったと、度々自慢気に兄の事を話した母。
私が書の道に没頭する事は、字の上手だった兄を自慢できる嬉しさにも繋がったと思う。
もしかしたら、私が書の道を歩くのは勝のあんにゃのやり残した想いかも。

母も18歳で母を亡くし、早くに嫁に行った長女の代わりに大勢の兄弟妹の面倒を見るのに、上の学校へは行く事は叶うはずもない。
しかし手帳に書き込んだ字は、実に均整が取れた美しい字であった。
私が褒めると否定しながら又もや『勝の兄にゃは字が…』と語りだす。

勝のあんにゃは大きくなくて小柄だった。
軍隊に入隊して馬舎と馬の世話係も任務で、身体の小さい兄さんは大きな馬が怖くて仕方なかったのだった。

そして又もや、父の車整備と同じ様に、上官の乗る馬を世話する。
夕方近くに洗うのに谷へと向かい、川に足を入れて洗う冬の冷たい水。
『あんたが乗る馬あんたが洗え!』←私の声
大きな馬への恐怖は誰にも知られてはならぬ自分だけの秘密であったろう。

硬いブラシで冷たい水で千切れそうな指先でやっとの事拭き上げて隊へ暗い夜道を帰るが冬場の日暮れは早い。
意地の悪い上官の機嫌が悪いと、ろくろく見もしないで
『汚れが取れてない洗い直せ!!』と。

どっぷり暮れた夕闇に、怖くて仕方のない馬に引きずられるように谷へ向かう。
日が暮れて月の灯りで、冷え切った空気の中で冷たい水と恐る恐るブラシを当てる恐怖と辛さと寒さ。
母は泣きながら私に語る。

その事だって、紙切れ一枚で招集され激甚の戦地で命を盾に戦っていた方々に比べると何を甘えた事をと言われるかも知れない。
勝のあんにゃもその後、戦地で名誉の戦死。名誉で戦死とは何ぞや…
遺骨として、石ころ二つが両親の元へ無言の帰還。。

けど、今一度、自分の身に置き換えて考える。
この一連の理不尽さが、戦争と言う名の下で平然と行われていた事実は、今、今日、この時間に何処かで繰り広げられている。

人間よ目を覚ませ!何故に戦う!殺し合い傷つけ合う?
賢い人間の知能を何故に負に使う!
どうにもならない事だけど平和を願わずにはいられない。

両叔父の無念さを、この令和の時代に全く見知らぬ姪が、ブログで綴るのは、両叔父たちの叶わなかった平和への祈りを私の口から語られようとは夢にも思わなかったろう。
もしかすると無念が少しは晴れたのではと思わないではない。
自分よがりの希望的推測なのであるが。


趣味の手仕事
墨染め草木染の小さな端切れで作成。
全て継ぎ接ぎ赤富士の上部に雪を。
下には晴れようとしている青い雲を置いた。

ルイ君 何思う?    いつも寂しそうに見えるのは私の心が見てるから?