またも清水はん。。前回の続きではありません。
京都清水寺から直ぐの参寧坂(サンネイザカ)
母と二人で訪れた最後の小旅行になった。
家から清水さんへは ほぼ ず〜っと一本道で、高速にも乗らずひたすら走れば辿り着く。
実家の菩提寺は清水寺を少し下がったお隣の様な近さの興正寺さん。
祖母が拘った立派なお墓は服部緑地に立墓されているが、分骨で納められる納骨堂のある興正寺さんに一緒には入れない名前の違う身内も納められている。
一心寺さんと同じ様に納骨堂にお墓と分けて分骨の形で納められる。
この一心寺さんには早逝したお母ちゃんのお母ちゃんが分骨されている筈、長女のいい加減なやり方と黙んまりとで行方知れずの祖母。。
何度問い正しても、間違いなく清水の興正寺さんに納骨したと言う、過去納骨者名簿繰ってもらったが載っている筈の祖母(母方)の名前は見つかりませんでした。一心寺さんでは?母の感でしかない。
変な感でしか無いのですが、私は色んな事でこの祖母に見護って貰えているとそれを信じている。
どうしょうもない事態に陥っても、必ず誰かが手を差し伸べてくれてるかの様に治まる。
大体の私の性格がおめでたいので何かとんでもない怪我とか盗難とか事件が起きても
"あ〜これで済んだもっと悪い事が起こる筈がこれ位で済んだ"
と置き換える事で自分を納得させられる。
それらの事は運命であって、自分に与えられた試練であるのだろうけど、気がつけば乗り越えられている不思議。
生きて行く上に立って不足も足るも思いはそれぞれ、幾ら満ち足りていても自分が不足(不満)だと思えば不足でしか無い。
人の欲望への匙加減、誰に責められる事も無い。
足るを知るはその人の生き方でしか無い。
生きて来た環境は全て違う、なので誰も責められる事も責めるべきでもない。
苦しいと言う事はホンマに苦しいんや誰にもかれにも分かってもらえるはず無いし。。
祖母の守護
どうしてそう思うのか?
まだうら若き祖母が亡くなる前のお世話(介護)を母が一人で世話をしたと聞いた。
その事を話してくれ涙しても一人でと言う愚痴は一言たりとも口をついて出た事ない。
長女である姉は嫁に行っていた。母は次女、そして妹達は歳が離れていた、それ以上に兄弟には頼る事も出来なかったと語った。
一番優しかった上の長男は戦死。
きっと生きていれば助けてくれた事やろうとも言ってた。
長男の事はブログで既に語ったが戦争ではなく上官に辛い目に。。
甲斐甲斐しく世話をする姿を見ての事だろう、その時に祖母がね、
「○○子、決して不足(不服)に思うなよ」
「うちは生きてこの世におらんでも、何処かでいつもお前を見守っとるぞよ。。」
立場が違ってもうちはお前見捨てる事など絶対に無い!と
「自分のした事は回り回って自分に還って来るんぞよ!」
と言って娘の一途な世話に、弱った身体で気持ちで応え聞かせたと昔語りで聞いた。
語る時、母の涙が辛過ぎて目を臥せた。
それでもね、母の運命なのでしょうね、兄姉妹弟の中で妹を一人だけ亡くしてる。
昔のお決まり結核で、下の世話も近くの谷へ汚れ物を洗濯に行ったと語るこれも母一人。
きちんと介護出来ていたのでしょうね、一緒に住む家族の誰一人感染せず皆天寿を全うした。
嫁入り先の祖父母に夫、大体が女性の運命サダメと言えばそれまでやけど
これだけのお世話して送った日々なのに晩年、猫可愛がわりされた弟妹が只の一度もお世話しないなんて。。
私ね、病院へ通ってた毎日の中で一度、二人で納得出来るように問いかけた。
「お母ちゃん、私を産んどいて良かったやろ?」
と笑いかけた。
私が来るのも、面会時間が終わるのを寂しがるのも私を頼ってくれていると思うそんな日の中で、母が笑顔で答える嬉しそうな顔忘れられない。
そうして母の事、ほぼ全て私がお世話させてもらえた。
私がその役割を与えてもらったのだと思ってる。
私もちっとも嫌じゃなかった。
ほぼ話せない口元で、私のつまらない冗談に一生懸命笑みを作る。
思い出して泣けて泣けて涙が溢れる。
でね、その事はうちの代わりに傍でいてくれたと祖母がきっと喜んでくれているのだと信じて疑わない。
だから祖母が、私を守ってくれていると自分本位の解釈です。
祖母の顔も知らない写真すら一枚もない。
母に何度も何度も、祖母の写真だけでも訊ねてとお願いしたがとうとう叶わず終い。
母のお世話を損得で考える訳や無い、お母ちゃんのお母ちゃんを一人で介護した様に私を頼りにして貰えたし看させて貰えた、祖母と母と私の3代の縁だと腐れ縁かも知れないそれでも満足な私。
以前にも記したが、村一番の美人で、色が抜ける様に白く、水洟の垂れそうな鼻(私の解釈ではツンと高い)と髪の毛が茶色くて、白髪じゃなくて栗色が嫌で自分でいつも黒く染めていたという。
11人も子供を産んで、子供が歩き出しても帰らぬ夫には陰膳の据え膳欠かさず、駆け落ちした故実家には頼れず、長男は戦死して石ころが2つ入れられた骨壺で帰宅、名誉の戦死とな。。哀し過ぎるわ···
話を戻します。
お参りや年忌弔いには帰りに必ず三寧坂の中腹の階段途中にある 『明保野亭』で食事をするのです。
お料理の写真はじゃらんnetからお借りしました
豆腐田楽美味しかった私は生麩だったと記憶にある
幕末に坂本龍馬の常宿の一つとされた由緒ある宿・料亭です
古い由緒ある料亭。
長い歴史の素敵なこのお店、コロナ騒ぎの末に長い歴史の幕を閉じた。
今はお茶のお店に代わる「京都 茶の湯 明保野亭」をオープン。
抹茶ラテの名前が。。飲みたいノダ
明保野亭の名残を残しつつお点前も頂けるとか
つい近年の事、明保野亭の名物桜の大木が倒れたのニュースを聞いた。。
樹齢100年以上の大木幹は苔生していた。
七夕には入口の井戸の横に大龜が置かれ笹の木を立て短冊が飾られた
写真を撮ったが行方知れず。
母が元気だった初夏少し前の頃の事、明保野亭の裏には竹藪と梅の木が鬱蒼と言うほど茂っている。
その梅の木に大きな立派な梅が鈴なりになっているのを毎年気にしていた。
でも、手が回らないのか採り手がいないのか鳥の餌を通り越して熟した梅は地上に無惨に落ちて傷んでいるのだった。
母は毎年季節になると、気になってきっと寝ても醒めてもだったと推測する。
でね、
お店にお墓参りの指定行事見たく明保野亭でのお食事となる。
その折にある日突然遠慮もなく店主に繋いでもらい聞いた梅の事。
「裏山の梅は、毎年どうして採集しないんですか?」
母は時々、いや何時も大胆であった。
「以前は色々梅酒に梅干し、ジャムまで造ってたんですが、何しろ大量に成るもので追っつかなくて、今では放ったらかし状態なんですよ」
と、母が「そんなら採らして貰えんじゃろか?」
すると、二つ返事で好きなだけどうぞと。
その時店主は、母が根こそぎ残さず取り切るとは夢にも想像もしてなかったでしょうね。
恐るべしは母!
そして我家のお寺さん、月参りにいつもおいで頂いてる次男坊も巻き込んで、大きなバンにハシゴや竿まで用意して明保野亭裏庭に乗り込んだ。
憶えていないけど何十キロとかで大量。
お寺さんと分け合ってその後大量の梅干し造りが始まる。
勿論梅酢を上げて、次にやたら大量の赤紫蘇丁寧に千切り塩揉みもして入れて土用干し完成したのです。
ご存知の通り母の指は腱鞘炎通り越して強い握力は無い、それなのに根性で赤紫蘇を千切り塩で数回揉む、大量の梅干しだから想像を絶する量を。。
その仕上げた梅干し大きな二瓶にたっぷり入れて梅酒と共に明保野亭へお礼の挨拶かねて持参。
その明保野亭から下がる二寧坂(ニネイザカ)に竹細工の店たけやまがある。
母が言った。
「あの店へ行って手削り竹の耳掻き未だ売っているのか聞いてきて」
年輩の店主が出てらして尋ねた。
あぁ後二つ?三つ?あったと思うゎ。
「ちょっと待ってておくれやっしゃ」
奥から小さな細い竹筒3本手にして
「これで最後ですゎ、もう作る職人おらしまへんのやゎ」
三筒全てお買い上げ。
それとここの竹箸、先が細くて姿が綺麗なので持つてが美しく見える様に思う、私は朱塗りと緑色と黒色が好き。
竹筒入りの耳掻き👇️忙中閑
裏守り(裏干支・向かい干支)は、十二支を円に並べた際に、自分の干支の真向かい(7番目)に位置する干支です。自分にはない性質を持ち、持っていると「お守り」や「ラッキーアイテム」となり、開運や魔除けの効果がある江戸時代からの風習です。
裏守り干支図
裏守りの意味
「守り干支」の由来: 自分の短所を補い、足りないパワーを与えてくれる存在とされ、古くから大切にされてきた。
活用方法: 小物を身につけたり、インテリアに取り入れることで、運気を向上させるアイテム(ラッキーアイテム)となる。
ファッション: 子供の着物の背中に刺繍したり、羽織の裏地にあしらうなど、粋な演出に使われる。
コピペ ★AIさんが分かるように説明してくらはりました。。













