あの頃

会社は今の時代もそうだが、私用電話なるものは敬遠されるべきであるのは当然で必然。
今はスマホの時代で無音にしておけば着信やらメールで用件は確認が出来て急ぎの用事ならこちらから人目を避けて連絡が出来る。

つい最近『徹子の部屋』のお客様に森公美子さんが出てらして、2019年に他界されたお母様の事を笑顔で破天荒な行動を話されていた。
我が母は2020年の師走に入ってもなく父の傍へ旅立ちました。。もしもあの世が存在するのなら父はどれだけ待ち焦がれていたでしょう。
きっと巡り会えたよね信じてる。
父が放った愛の溢れる名文句
「そりゃあ生まれ変わっても一緒になりたいわよだ」
父に逢えた母はやっぱり嬉しさを押し殺したあのポーカーフェイスで喜んでいる顔が私には手に取るように分かる。

私は、森公美子さんのお話で瞬時に母を思い出して涙ボロボロで画面が霞んで観れなくなり色んな思い出が走馬燈のようにグルグル頭の中を廻りだした。
逢いたくて、恋しくてたまらなくて胸が熱いのをを通り越して痛み出した。

話は電話の話に戻ります。
『会社には急用でない限り、電話してきたらあかんよ』と仕事の電話の邪魔で迷惑になるからと何度頼もうが、母にすれば短ければ良いとばかりに良くかかってきた。

プルップルッ『✩✩さん、お家からです』
首を竦めて受話器を取る。

『○○子か?』と聞くと今日◎◎作ったから帰りに寄りと、ほぼ食べ物で釣る。
寄りは断定であり、寄れるか?の疑問文ではない。

食べ盛りのあの頃
バラ寿司、巻き寿司、握りに、姿鮨。。
食べ盛りの3匹の子豚に作るこの寿司群。
とにかく腹を満たさなければの苦肉の策。
母はとにかく寿司群が好きで得意料理であった。
巻き寿司は海苔がはち切れて裂けて白飯が見えているほどギュウギュウの巻寿司。
握りなどは大きなぼた餅みたく大きなシャリ飯。
以前ブログ内に書いたウオゼの姿鮨等は今で言う爆弾おにぎり。
以前書いたブログ記事あの後私なりに一生懸命作って持参したのだが。。
母の一言「これ、なんぞい?」ウオゼの鮨と言えなかった。

いずれにせよ、母のそれらはそれは美味しくて俯けないほどお腹に押し込んだ。父は美味し過ぎて顎が落ちるの連発。
それほど美味しいのは魚ネタの新鮮さでした。
食材をケチらなかった。
てか、あの頃はスーパーではなくて食材ごとの店構えで新鮮さにも外れがあるはずがなかった。

あの毎日のお米五合が買えなくて父が「かんまん、おいらが行ってくる」と幼い弟を前の補助席、後には私を乗っけて。。大の男がその日食べる米をヘッチャラを装い、「うちゃ恥ずかしいてよう行けん」の母を庇う。

徳島から大阪へ
そんな両親の辛い思い出にも負けずの頑張り。
お陰で頂ける美味しい食事、私は生意気にもそんな事忘れていた。

私の好物、酢の物関係。きっと母の影響
肉やら天ぷら揚げ過ぎた、佃煮などなど。
筍と実山椒の佃煮などタッパにギュウギュウに詰められてお持ち帰りもスタンバイ。キムチもとびきり美味しくて水キムチなどは美味し過ぎて父では無いがほっぺたが落ちるかと。

どちらでも良い私は、疲れた体引きずるようにして帰宅後に車で実家へと向かう。
長い間仕事は掛け持ちでしていて、会社の休みの日(シフト制)には書道教室もあり、土日祝日も平日も殆ど1日お休み等なかった。イイワク

だけど、母の気持の目一杯の料理を見ると、頂くと、疲れが吹っ飛ぶ様な感覚とそれ以上に美味しい満足感に浸れた。

なのに、なのにあの頃の母の愛と寂しさ、有り難さをちっとも感謝してなくて、いいえ分かっていたの本当は。。
よく昔から聞く「亡くなって知る親の恩」
本当にそうなのだと知る自分が情けなくて情けな過ぎる。

そして父
父の晩年、薬類は常に服用しなければならない事も無かったのだけれど足から萎えていった。
長い間本当に長い間、店をやめると言う選択肢がなくて一度自転車で転けて大事には至らなかったのを幸いに歩いて店へ通う様に。
歩いて20分程の距離、朝は7時には起きて支度し帰りは夕方6時頃、年老いて足元の悪くなった足で徒歩でとなると休み休みで倍近くかかったろう。
八十路を超えていた。
仕事が運良く父の帰宅時間に間に合うなと思うと、帰宅を急ぎ車で父の帰路の歩く姿を追いかけた。

何故、店を閉めなかったか。。
動かないと、より足がおぼつかなくなると考えてだと母から聞いた。
夫婦で頑張って続けた商売、貯えが無くての事ではない。
今更ながら
『お父ちゃんありがとう!ホンマにホンマにありがとう!』

そして父は通うのをやめた。
その後は母が休み休みで店に立った。
足るを知るではなくて、足らない時を身に沁みて知っている
老夫婦の身体の動く限りはの思い。

やがて、父は動けなくなり座る生活に移行して行った。
私は、頻繁に実家へ行くようになった。
甘いものが好きな両親へ袋いっぱい満タンにして持って行く。
父は『こんなにいつもかつも沢山買うてこんでええのに』と言いながら顔は袋に突っ込んで中身を物色してた。
両親とも甘党。。なのに私は甘いの苦手。。実の子か?笑°

私は色んな悔いも懺悔も持て余すほど抱えているが、たった一つだけ良かったと思っている事がある。

晩年の父の検診に必ず付き添って行けた事。
何があろうが引っ付き虫で付き添えた事。

以前書いたが優しい親戚の叔父さんに付き添って頂いた。
人間とはこんなにも優しいんだと今も忘れる事は無い。

もう一つ
ふと思い出したやるせない忘れられない思い出。
母の友人と言うか知り合いの老婦人。
母が使わないハギレを次々とあげていた。
縫物が好きで、それもミシン縫い端切れでとても綺麗に縫われて縫う楽しみと人様に貰ってもらう楽しみでせっせと縫う今で言う何かのおまけに付いてくるような小さな手提げ。

その方の住処はその方の名義。
だが、息子さんが取り壊して建て替えたいと。。
願いを聞かざるを得ない母親。
勿論ローンを組む為に土地は母、家は息子の名義で新築。

所がである、その息子夫婦は母親の楽しみである縫物にいちゃもんをつけた!
そしてミシンを本人の居ない間に無断で廃棄した。
帰宅してミシンが無くなっているのが分かった時どんな気持で悔しさをのみ込んだのだろう…切な過ぎる。
「家の中に糸くずがあちこちに‥ 見苦しい。。」が理由。
それも息子夫婦の揃っての意見。
落ちていれば拾えよ、服に着けば取ればいいじゃないか!
縫う事が、楽しみの手仕事が容赦無く取り上げられた。
母から聞いたその話に心底の腹立ちと歯痒さで怒り心頭。
でも、赤の他人の私にも母にもどうしょうもない心の闇を背負わせた。

息子夫婦に子供はいなかったのやろか。。
そんな仕打ちを見ながら育つ、親と同じ気持ちで育つのか。
私は穿った気持ちを胸に置く。
もし、年老いて同じ立場になったなら自分の心に疼きを覚えるのではと。

神様の存在をここで引き合いに出す訳では無いが、天は見てなさる。

そんな気持ちで今回、母の心尽くしを疲れているのを理由に少しでも面倒だと思った私を心より悔いて詫びたい。
自分の心の狭さや母の寂しさにもっともっと寄り添うべきだったと。
コロナの真っ只中で毎日欠かさず通う娘が突然来なくなったのが感染予防の為面会禁止が決まったのだと寝たきりの母に理解出来ていたのだろうか?知る術はないが私はやっぱり親不孝な娘だとつくづく思う。この事は以前のブログにも書いたが。。

生きている内にしか親孝行は無意味だと思い知る。


                   ココちゃん起きて!!
                     私、どうしても眠いの…

母ちゃんは会えない毎日が辛すぎる。。