1月1日に発生した能登半島地震。最大震度6強。甚大な被害を受けた石川県珠洲市でのボランティア活動で出会った大場黎亜(おおばれいあ)さん。

 

東京出身、34歳、宮城県南三陸町在住。「株式会社Plot-d」代表取締役「一般社団法人東北GYROs」代表理事を務めています。

 

2011年3月11日に発生した東日本大震災後、南三陸町にボランティア活動に行ったことで、ご縁ができ移住されました。

 

(チェーンソーを使いこなす黎亜さん)



-東日本大震災の直後に、ボランティアに行ったのではないそうですね。

当時大学生で、テレビで自衛隊や消防などの人たちが毎日、悲惨な状況の中に入っている映像を見て、行くという概念も無かったし、原発の問題も当時まだ何が正しい情報かよく分からなかったので、安易に動くべきじゃないし、自分が何か出来る立場だと思っていませんでした。

ですけど、通ってた早稲田大学は地方からの学生が多く、震災後、5月のGW明けまで休学で、大学が再開して山形出身の同期に会ったら、家が宿をやってて福島から避難してきた人を受け入れていることを知りました。「あ、そんなことしてたんだ。」って、急に身近に感じたんですよね。

 

夏休みに福島の子供たちを山形によんで、日中は思いっきり外で遊ばせてあげて、夜は学校に行けてないので小・中・高生に学習支援をしてほしいと、早稲田の同期と4人位で参加して、それが最初のボランティアといえるのかな。

バスで子供たちとキャンプ場みたいなところに行ったとき、木がいっぱいあって、、今でも思い出したら泣きそうになりますけど、ある女の子が「この木、触っていいの?」て聞いたんですよ。私に。その質問の意図をくみ取るのにちょっと間があいてしまったんです。この子たちが面してる放射能の問題、根深いものを感じて、被災地に行かなきゃと思った、その根底には、この一言があったからかな。それが印象的であの瞬間は忘れないですね。

-どのようなきっかけで、実際に被災地に行く、という思いになりましたか?

教員を目指していて、後に教員免許も取ったんですけど、大学3年生にあがる年に震災があって、4年生が教育実習なので3年生は教育実習に行く準備のための授業がいくつかあります。9月の終わりから後期が始まったとき、初めての先生の一言が、、そのまま言うと「おまえたちにとって今一番大事な物って何だ。」


殆どの班が、東北の復興が、原発の問題が、と言って。その先生は「東北の復興が、福島の原発の問題が、って言った君たちは福島の野菜を食べれるか?」って聞いたんですよ。語弊がないように言いますけど先生は決して、福島の野菜を批判したかったわけではないです。その時みんな「はい、食べれます。」誰も言えないわけですよ。


「自分自身や自分の大事な人に食べていいのか、分からない状態なのに東北の復興がとか、原発の問題がとか言うな。教壇に立って子供たちや学生たちに何かを伝える人は、メディアとかの受け売りで話すのではなく、自分の言葉で伝えられる人になりなさい。」って。その時に「行かなきゃダメじゃん。見ないとこの震災のことを教師になっても伝えられない。」と思ったから「行こう。」と思ったのがきっかけです。

-その先生、素晴らしいですね。イイ先生に巡りあいましたよね。

ホントにそう思います。でもあの津波の被害は一般人が踏み入れる場所があるのか分からないぐらい悲惨に見えていたので、すぐ行こうと思えなかったんですけど、そのあとその授業のシリーズでいろいろ社会問題とか触れたときに、いかに自分が他人事だったかと思って。やっぱりどこかのタイミングで行こう、と調べ続けていました。旅行会社がやっているボランティアツアーだったら、初めての私でも、必要な物も全部書いているし行けるかなって。選んだ先がたまたまいくつかある中の南三陸町でした。

(黎亜さんは震災発生の年、2011年の冬に南三陸町に行きました。ボランティアが減ってきた時期。そこで出会った人が「東京なら毎週のように車で誰か来てるから乗せてもらうといいよ。」と南三陸町によく通う人たちのSNSのグループに入れてもらい、月に1回、南三陸町に通い、学生ボランティアバスツアーを何便か企画し実行。その後、ボランティアセンターからの依頼で何人かいる現場リーダーの1人になりました。2014年には南三陸町から復興応援大使の1人に最年少で任命。2015年3月ボランティアセンターが閉まるまで、ほぼ毎週末通っていました。)

-毎週末、南三陸町に通っていたんですね。

動機が支援したいというよりも、行かなくては分からないものがある、行き続けて見えるものがある。出会う色んな大人の人たちが個性的で、経験が皆さん違うから教えてくれる知識とか違うし、色んなお兄ちゃん、お姉ちゃん、お父さん、お母さん、お爺ちゃん、お婆ちゃん出来たみたいな感じ。通い続けていると地域の方がたくさん声を掛けてくれて、苦しい話もいっぱい聞かせて頂きました。大事な人に挨拶する、感謝するとか。私も家族にちゃんと声掛けよう。自分が変わっていくのも感じて。被災地に支援者としてというよりは、私にこんな大事なことを気づかせてくれたから、出来るだけ自分もこれに付き合っていこうと思いました。被災地に通い続けることで学ぶことが本当に多かったです。

-社会人になってどんな仕事をしていましたか?

教員になろうと思ってたけど、通っている以上に入り込んじゃって。まだ偉そうに教えられないこともいっぱいあるなって思ってて。被災地で子供たちの居場所をもっと作れないかなと、たまたまイベントで知り合った町づくりの仕事している人に聞いたら「それって教えるのが難しいからやってみた方が分かるよ。」って言われて、最初はアルバイトで、町づくりのコンサルの仕事をするようになりました。

-町づくりのコンサル?どんな仕事ですか?

例えばこの町が何十年先にどうあるべきか。行政的に言えば総合計画といわれるものとか、計画を考えるときに地域住民の声を入れたいとワークショップをやったり、ヒアリング調査をしたり、子供たちを巻き込んで未来のことを考えたり。民間主導でこの町をもっと賑やかにしたい、この商店街を活性化させたいと地域住民と集まって、そこに設計とか演出家とか色んな人をチームに巻き込んで絵を描いてやっていこうみたいなことです。事務的な事で言えば資金をどうするかなど、そういう事を一緒に考える仕事です。

その仕事を始めたときからいつかは独立したいと社長に言ってて、2019年4月に独立しました。私は予算がなくてもいいから、やりたいと思える街づくりに伴走したいという想いがあって、小さく独立しました。

 

(南三陸町で仲間の皆さんと)



-ところで南三陸町で結婚されたんですよね。

町づくりのコンサルの仕事で全国、飛び回っていたんですが、2017年に南三陸町の人と結婚して町民になりました。移住する気は全くなかったんですが、一生付き合う町だと思ってて、この町をどうしていきたいか、どうなってほしい、みたいな想いがどんどん募っていって、最年少で復興応援大使になったときに自分は何を求められているのかと、地域で出会った年上の人たちにそのような話をしたら「町で一番若い議員を同級生だから紹介するよ。」と相談相手みたいな感じで紹介されたのが今の主人です。最年少議員と最年少大使で、お互いに仕事のこと、町のことなどを熱く語り合う。そういう時間を重ねていきました。


(結婚して南三陸町に住まいが変わった後も、ほぼ生活リズムを変えずに全国飛び回っていた黎亜さんですが、独立して1年経った2020年、生活が一変してしまいました。新型コロナウイルスの蔓延でした。)

-コロナの時期はアレもダメ、コレもダメでしたね。

 

コロナで全部契約も止まって、飛び回ってた自分の生活リズムが家庭に閉じこもることになって、今思えばダンナにいっぱい八つ当たりもしたと思います。私のことを学生から見てた地域の人たちが「アイツ大丈夫かな?」と心配してくれてました。

私たちの仕事は触れ合うこと、対話することをすごく大事にしていて、それで今までやって来れてたのに、全否定されたような、積み上げてきたものが全部崩壊したような気持ちになってしまった時期でした。失敗して仕事を失ったり機会を失っても、そういうときこそ会いに行って目を見て話をしよう、そういう事で誠意を見せてきたのに、この事業成り立たない、この生き方が成り立たない。葛藤した数年でしたね。

-どのように脱出していきましたか?

「黎亜、やることがなくて困ってるんだったら畑ならマスクしなくていいぞ。」「海も外でやる作業だからいいぞ。」誘ってくれたのは一次産業の人でした。ひたすらネギ抜いたり、種まいたり。手伝いをしたことで現物支給をいっぱいくれて、コロナの年が人生で一番野菜食べました。魚をさばくのも覚えました。だからすごく豊かになりました。土の違い、水の良さ。虫は苦手だけど、この虫はいい虫だよとか教えてもらったり、食べ方を教わったり。ゆっくり時間をかけてそういう魅力を教えてもらったので、今思えば、性格的には元気にしていたでしょうけど、だいぶ精神的に参っていたと思うんですよ。それをだいぶ癒してもらいましたね。

-無駄じゃなかったですね。

ホントに意味があったんだなと思います。

 

(チェーンソーで木を切る姿が凛々しい)


-今はどのような生活をしていますか?


元々大事にしていた教育、町づくり、防災、言葉を大事にしてることもゼロにするつもりはなかったので、独立する前からのご縁、独立したタイミングで出会った人、その後も私の発信を見て一緒にやりたいと言ってくれた人と、あまり欲張らずに、やろうと思ったことを続けています。

南三陸町は海と共に生きる町で海が一見メインですけど、その海のために山が大事だと、山に入ってコロナ禍でやっと分かったので、そのためにいい森を育てましょうと、里山を守る団体を立ち上げて活動しています。

森づくりから町づくりを考え、それを一緒に考える人づくりをするなど、半分プライベートで半分地域貢献、でもちょっと仕事、みたいなことを増やしてみたり、コロナ前よりはライフワークバランスは変わりましたが、大事にしたいことを守りつつ、自然と向き合いつつ、家庭にいる時間も増やして、睡眠時間がすごく増えたし、ゆっくり湯舟に浸かる時間も増えました。

-身体に良いことが増えたわけですね。里山を守る、具体的にはどのようなことをされていますか?

南三陸町は8割弱が山林です。木がいっぱい倒れていたり、荒れてるな、というエリアがたくさんあって。昔は薪で生活したり、炭焼きする人がいたり、木を売って生計立てたり、家の裏にあった山でそれぞれの家庭がやってたから、日課として手入れをしていましたが、それをしなくなった。電気やガスになって、木を切る技術を受け継がなくなって税金だけ払ってるみたいな。山が暮らしから離れたからこうなっていくと分かって。ただ私たちが頑張ったところで、私だって平成で生まれで、昔の暮らしで生きていけると思わないですけど、でも昔の人たちの暮らしから一部受け継げるものとか、一部取り戻せるものとか、薪で生活するわけではなくても薪火の使い方をちゃんと覚えるのは防災になるし、今の燃料問題を解決する一助にもなるし、地球上に人間があとから暮らしていると思った時に、それをちょっと見つめ直すのって、ウチの町の里山を守るだけでなく、もっと世の中のこと考える良い教育になると思うので、私たちが学びながら里山をお手入れをしていることを発信したり、体験してもらう機会を作ったりしています。

-木を切って薪にしているそうですね。

倒れてる木や枯れている木をどかさないと人が歩ける道が出来ないとか、倒れてる方向によっては雨が多い日に水の流れが助長してしまうものなどを切って細かくして、それを薪にしてキャンプ場に卸て、キャンプにきた人にそれを買ってもらうときに、こういう取組みを知ってもらうことを連携してやっています。

-重機にも乗って作業しているんですよね。

荒れてしまった山をちゃんとお手入れするときに最小限の小さな道を作って、人も入れる、軽トラも入れるように。木を倒して何mづつかに木を切る時も、安全に出来て道沿いに搬出しやすくなるという、その道を作った方がいいという山には重機で入って道づくりをしています。

 

(重機で道を整備)



-毎月、能登半島地震の被災地の一つ石川県珠洲市でボランティア活動をしていますね。

東日本大震災後も災害ボランティアを続けていて、2016年の熊本地震で、いま珠洲で活動している「災害ボランティア 愛・知・人」と出会いました。そのご縁もあって通っています。

 

(珠洲の現場で重機の技術を活かして)



-どのような想いで珠洲に通っていますか?

 

私は被災してないですけど、主人は家を流されたし、家族は無事でしたけど、結婚前はまだ仮設に住んでいました。私は車中泊してたので結婚前提になってきたころは「ウチ泊まりなさい。」と仮設で寝泊まりもした時があって、ダンナとお義母さんと一緒に。仮設の生活もなんとなく体感してたし、家を失くしてから今の家を建てるまでの長い道のりとか、その間の町のもめごととか色んな物を見てきていましたから。
 

東北と全く一緒ではないけど、この先、大変だろうなと思った時に私が何か出来るか。能登半島地震の直後「黎亜は行くんでしょ。」って、何人かがイベントで集めたお金を持って行って欲しいと言われたときに「何て伝えてきたらいい?」て聞いたら「応援してます。」それはもちろんありますけど「必ず復興する。」って言ったんですね。家族を亡くされたご遺族には必ずって言っていいのか分かりませんが、でも私にそれを託した人たちは、確かにココまで来た、というのを身を持って証明している人たちです。「時間はかかるけど復興したよって。だから大丈夫だよ。」って言ってきてほしいと言われて、伝えようと思って来ました。

最初炊出しが多かったタイミングで来て、南三陸のワカメを持って来ました、と言うと「南三陸も大変だったわね。あっちのワカメ美味しいよね。」って。私は漁師でもないし、大変な思いをしたわけではないけど。炊き出しをもらって家に帰ってから、飲物を持って来てくれたり。また来なきゃなって、また伝えに来ようとか、前回良くして下さった方に違うお土産持っていこうと、とろろ昆布持っていったりとか、そうやっているうちに月に1回来てます。

そしてもう一つは、南三陸町で長期でボランティア活動をしてきた経験から、ボランティアを長くやっていく大変さを知っていますので「災害ボランティア 愛・知・人」さんが頑張って支援をやり続けているのを、自分なりに応援しに来れたらいいなって。そういう想いもあって毎月、珠洲市に通っています。

 


(屋根で作業する黎亜さん。愛・知・人フォトライブラリーから)

 


優しくて素直で、頼もしくて、これまでのご自身の経験の活かし方を心得ているように思いました。そしてなんと言っても、その場にいるだけで場が和む、とても魅力的な人です。今回のインタビューを通じて様々、大切なことを思い起させていただきました。たまたまですが、放送日6月24日は結婚記念日でした。黎亜ちゃん、おめでとうございます!



(6/24 ON AIR LIST)

M1.さんご/いのちのリレー

M2.Queen/手をとりあって(ゲスト リクエスト)

M3.神戸住吉小学校合唱団/しあわせ運べるように(リクエスト)

M4.松田聖子/夏の扉(リクエスト)

M5.MONKEY MAJIK/トビラ