どうも〜、PUFFYからよく「かに道楽」誘われるURYUです。

小学校卒業後はJリーグ横浜FCの下部組織(横浜FC鶴見JY)に入ります。

セレクションとか全く手応えなかったけど、川崎の選抜だからっていう、それだけの理由でおそらく合格。
「この中学3年間で成長して、横浜FCユースに上がって、エスカレーター方式でプロになれたらいいな!」なんて誰もが想像するような期待を膨らませて入団。
中1夏
兄貴と父親の実家でパシャり。この頃は相当ガリガリ。そんで髪型たむけん。

見ての通り、まだまだクソガキな自分。
中学入学後に初めての練習で感じたのは、何人もデケェ奴らがいるな…と。
中1春で165cm超えが10人くらいはいたと思う。当時の永田は150cm前半で全国平均くらい。
Jリーグの下部組織(以下、J下部)であるから、セレクションで選ばれたサッカーのできる子達が県内から集まってくる。その中でも体が出来上がってる子、身体能力の高い子は有力。

現在は強い街クラブ、力を入れる中学校のサッカー部が増えたため、小6の子供達には多くの選択肢があるが、昔はサッカーを本気でやるならJ下部だろ!みたいな雰囲気があった。そのため争いは激しかった。

横浜FC鶴見JYは、環境こそまだまだ整ってなかったけど、選手のポテンシャルはあったし、どの学年のチームも魅力がありました。
2006年ドイツワールドカップ

クラブに入団後、最初の方は全く先発に選ばれなかったけど、中1の夏辺り(ドイツワールドカップが終わった頃)から先発で出れるようになった。

2002年日韓ワールドカップの時もそうだけど、レベルの高い試合を見ることで育成年代なら尚更気持ちもプレーも変わるんでしょうね。
中2春
「ステーキのどん」でお替りしまくって店員がドン引きしてた。(どんだけに)

それ以来、チームの絶対的な選手という訳ではないけど、先発にいる1人みたいな感じで試合には出れていた。
けど、自身は「いつベンチになってもおかしくないな」って心境。
周りはみんなサッカーできるし、俺は代えがきかない選手でもないし、先発外されるのが怖いな…って思ってました。
毎週末に組まれる練習試合で、1本目に名前が呼ばれてはホッとするような日々。

今思えば中学生ながらに中々のストレスでした。
この頃からだんだん夢や目標が分からなくなってきたような🤔将来のことでは無く、チーム内でレギュラーじゃないといけない。みたいな狭い世界でしか物事を考えれなかった。
プロになりたいって想いも薄れてきて、上には上がいるなって典型的な思春期燃え尽きパターンに入ってました。
そんな中、クラブではリーダーに指名されたのを覚えてます。
全体のキャプテン(部長的立ち位置)、ゲームキャプテン、副キャプテン。
等を割り振られ、自分は部長的なやつに任命されました。
周りが嫌がる雑用もやるし、声を出すからコイツでいっか〜的なノリで監督、コーチは選んだのだろう😂

まぁ、なんやかんやそれなりに充実してた中学サッカー生活。
ここまでは…。

中3の最後の大会を前にして、今でも夢に出てくる、苦しい経験をします。本気でサッカーを辞めたくなりました。

次回へつづく…。(今回予想以上に長くなったのでここまでにします😅)