普遍的真理 VOL4  天と地の語るもの。 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

腸を締め付けての排泄妨害も続いています。
思考能力はどんどん低下しているような気配です。


胃腸の異物を通じての
夏向きのマイクロ派照射が強くなりました。
(寒くなくてよいのですが。。。)


そのために貧血も頻繁です。


私は自分を美化するつもりはありませんので
冒頭から下ネタ的な話になりますが
工作員の関与について取り上げます。


様子を見ていると
どうしても私がブログでその事に触れるように
挑発しているようにも見えるので
敢えてその挑発に乗るのです。


最近はネットでブログを広報していた私を妨害するために
工作員は他の人間の書き込みで、
私を髣髴させるようなものを検索し
(同じトリップや同じHNの人間の書き込み)


その中で利用できそうなものを引用しては
私や理解者、加害者が見ているような掲示板スレッドで
ばら撒いているようです。


私の物ではない書き込みを
私のものであると印象付けているのです。


とりわけ今は性描写のある内容や
暴言を拾ってきてはそれを書き込んだのが
私であるかのように印象付けているようです。


私は、昔は自分の体験含めて
恋愛話の記事の中では性描写をも書いていたことは
紹介しましたし


自分のブログが知り合いに”アダルトサイト”
と言われていた話も紹介しました。


少なくとも私は”H”だったことも認めています。


学生時代仲の良かった友人には
”性の暗黒面のマスター”と
冗談でからかわれたこともあります。


異性関係の悩み相談も頻繁に受ける立場でした。


でも昔の話です。


大体男で”H”でない人間はいるのでしょうか?


戒律で全てを禁止されてそれを自ら守ることで精神を歪ませ、
元々さまざまな欲求を抑える資質がないゆえに
他人を攻撃することで自らのストレスを発散している。。。


そして他人を悪人扱いするネタに
人間の本能的なものまで利用している様に見えるのが
身近な工作員です。


更にこの人間達は
私をホモ扱いしたり、ロリコン扱いしたり
不倫願望を持っているかのように誘導したりといった


性の倒錯者扱いもし始めています。


大体が私は自分自身にこそ興味のあった人間で
他人の生活や他人の性に興味を持って
それを覗く趣味はありません。


それ以前に今の私は、肉体的刺激、脳への刺激含めて
この人間達に性的欲求不満を意図的にためられなければ
普段は性的な物に興味を示すこともないのです。


(今は慢性的に性的刺激に反応するように
男性ホルモン強化や苛々強化が繰り返されていて


精神状態を正常に保つため自慰行為で対抗しているのですが
時にはそれもネタにされているようです。
そしてその行為さえ妨害が始まっているようです)


色々考えたのですが、これらの工作員に関しても
有意義な記事にするために”反面教師”の材料として
精神的な側面から取り上げてみようかと思います。


冒頭から低俗な話で申し訳ありませんが
私は一人でも多くの人間に
自分の主張を理解して欲しいのです。


自分への誤った印象がそれを妨害するならば
それを改善したいと思っています。


そしてありとあらゆる方面で嘘と改ざんとでっち上げで
人々の意識を誤ったほうへと誘導し


他人に誤った価値観を持たせ続けている人間達を
放置したくもありません。


(怪しげなクリスチャンの批判や、
精神サイト、アセンション、銀河連邦とかの批判記事には
この人間達は過敏に反応します。
メーソン直の組織の関係者としか思えないのです。)


「他人を躓かせる人間は
ゲヘナへ放り込まれたほうが良いのです」

イエスキリストも言っていました。


”躓かせる”とは創造主への信仰から
かけ離れさせること。


つまりは真理へと進むのを妨害する事だと思います。

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そういえば2ch掲示板への書き込みが
再び出来なくされましたし


一方では今まで頻繁に紹介していた
世界の地震発生の状況を伝えるHPに接続できなくなりました。


事情は想像がついていて
今現在もHAARPが激しく稼動していることも
無関係ではないと思います。


http://www.haarp.alaska.edu/cgi-bin/magnetometer/gak-mag.cgi


私が何かを見つけてブログで取り上げることを妨害するためです。


HAARPは数日まえから延々と動きがありますから
10日後くらいまでの間は


日本や世界の大きな地殻変動、

気象変動、そして私達の精神の状態には
注意が必要だと警告をしておきます。


私は世界の地殻変動に関して
情報を得ることが出来なくなりましたが


皆はもう自らその作業が出来るはずですし
私よりも深く理解の進んでいる方も多いと思います。


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今日も聖書のイエスの言葉や
聖書の中の使徒の言葉を引用して


その意味を生命の科学、イエスの奥義を使用して解釈し
その教えの理解を皆と一緒に深めて行きたいと思います。

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以前から理解できそうでどこか掴めなかったイエスの言葉、


「後のものが先になり、先のものが後になる。」


最近なんとなくこの言葉の意味が
理解出来てきたような気がしています。


これは、聖書のマタイの福音書の中で
ブドウ農園の主が、労働者に対して
労働時間に関係なく同じ賃金を払った時の例え話の時に


天の国とはこの時の主人のようなものだと
語ってくれた時のイエスの言葉です。


「私達は朝から働いたのに
なんで一時間しか働いていない人間と
同じ賃金をもらうことになるのか?」


と朝から働いてた労働者は不満を言うのですが


主人は


「私が貴方達と同じように彼らにもあげたいのだ。」


と労働者を諭す内容でした。


先に働き始め長い時間を働いていた労働者は、


後から来た人間達よりも
農園の主人に対して多くの奉仕をしたのだから


そこから貰うべき物は後から来た人間よりも
多くあるべきだと考えました。


自分たちは後から来た人間よりも余計に権利がある。。。
(偉い、罪が軽い、良い人間だと言うことの例え)


でもそれが実はすでに心の価値観への囚われを露呈していて


彼らは元々が1デナリで働くことを
主人と約束していたのですから


雇ってくれて、その約束を守ってくれた主人に
感謝することはあっても
それに不満を持ってはいけなかったのだと思います。


しかし後からやってきた人間は
一時間しか働いてないのに関わらず1デナリを貰えたのですから
主人に不満を持つことなく感謝したことでしょう。


つまり長く働いた人間達は奉仕こそ長かったけれども
結果的に主人に感謝する気持ちを持てなくなった一方


短く働いた人間達はそれに対しての対価に感謝し
主人に感謝したと言う内容でした。


これは神と神の国の例えの話でしたし


感謝は”信仰”に置き換えて考える事ができますし
その結果”信仰”を強く持った後から来た人間達は、


天国に行く資格を先に手に入れることになったと言う
例えだと思います。


私たちのこの社会の常識を持っての心の概念では
先に来て余計に働いた人間の方が高く評価されますし
後からやってきた人間はそれよりも低く評価されます。


つまり天国に入るための列があるとすれば
長く働いた人間は前の方に並ぶ事になります。


しかし先に天国に入るはずだった人間達は
不満を持ってしまったのに対して
後に来た人間達は主人に感謝した


つまりは強い信仰を持ったわけです。


罪に例えると、前者は罪の少ない自称善人で、
後者は自らを罪深いと悟った人間に
置き換えて考えればよいと思います。


先に農園に入った(信仰を始めた)人間達は
他人との比較においてもエゴの心を持って神を非難しましたし
神(農園の主人)への感謝の気持ちを忘れたことになります。


これはたとえば同じクリスチャンであっても
色々な場面で振り分けて解釈できると思いますが


生まれながらにクリスチャンとして暮らしてきた人間がいて
自らは罪など犯したこともないし
自分は天国にいけると信じきっている人間がいて


一方では自分が罪深いと感じ
あるときクリスチャンになって
その後も信仰を強くしていた人間がいたとして


先のクリスチャンが実は自らの罪を認識していないで
神への信仰を形式だけのものとしているならば


それよりも信仰期間が短くても、組織では末席にいても、

自らの罪深さを理解して信仰を強めているクリスチャンの方が
先に覚醒する(天国への資格が得られる)


と言うような例えにも繋がると思います。


イエスの手によって神に救われるのは後者です。


つまり後の者が先に天国に入ることになります。


似たような聖書の中の例え話で、


借金をしている二人の人間がいて
片方は50デナリの借金でもう一人は
500デナリの借金の金額でしたが


それを返すことができないと言うことで
両者はそれを免除してもらう事になるという場面がありました。


では一体どちらが多く
その事を感謝し金貸しを愛するようになるでしょうと
イエスは問いました。


ペテロは
「余計に許してもらったほうです」と答えて
イエスはそれを肯定しました。


罪を多く許して貰った方の人間の方が
(もちろんこれも例えで、
自らの罪深さを自覚していた人間と言うこと)


金貸しに対して強く感謝した
(神を信仰心を強めた)という例え話だと思います。


本来借金の多いほうがこの社会では
罪が重いと言うことになると思いますが


それを許された時に強い信仰を持ったのは
罪の重いほうだったと言うことになります。


(罪に例えれば自分の罪深さをより自覚したのは
後者の方だということです)


マルコ12章では、
賽銭箱にスズメの涙ほどの金額ではありますが
所持金の殆どを投げ入れた貧乏人な女性を


「この方は誰よりも沢山献金箱に入れました。
他の人間が有り余るうちから入れたのに
この人間は生活費の全部を中に入れたからです」


とイエスが触れる場面がありました。


ここでも似たような趣旨を
私達に説明してくれているのだと思います。


有り余っているお金の一部である一億円を寄付した人間と
全財産である10万円を寄付した人間では


もちろん、この社会では1億円を寄付した人間のほうが
高く評価されますがイエスの判断はそうではありませんでした。


つまりはこの社会の中では価値があるとか、
罪が軽いとか、地位や権力が上であるとされるものが、
往々として天の国ではそのようには評価されることなく、


結局は大切なのは心の持ち方であり、
罪深さを自覚していることであり、


これは
「この世で高くされるものは天の国では低くされる」


と言う言葉にも繋がるもので、


結局は
「この社会の中での順列や価値概念は天の国では通用しない」


と言う趣旨に繋がってくるのではないでしょうか。


既存の解釈を出来るだけ避けて
先入観なくイエスの言葉を読んでみて欲しいです。


大きな教訓を私たちに与えてくれるかもしれません。

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聖書には”天”なるものや”地”なるもの
更には”肉”のものや”御霊”のもの
”神”なるものや”人”なるものという例えが出てきますが


生命の科学の理解者は
それを心と精神、三次元と四次元、


そのように区別することを意識することで
聖書を正しく解釈することができると言う話を
触れたいと思います。


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コリント人への手紙Ⅰ 16章
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神は、御心に従ってそれに体を与え、各々の種に
それぞれの体をお与えになります。


全ての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、
鳥の肉もあり、魚の肉もあります。


また、天上の体もあり、地上の体もあり、
天上の体の栄光と地上の体の栄光とは異なっており、


太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。
個々の星によって栄光が違います。


死者の復活もこれと同じです。
朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに蘇られされされ、


卑しいもので蒔かれ、栄光あるものに蘇らせされ、
弱いもので蒔かれ、強いものに蘇らせされ、


血肉の体で蒔かれ、御霊に属する体に蘇らされるのです。
血肉の体があるのですから、御霊の体もあるのです。


聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、
最後のアダムは、生かす御霊となりました。


最初にあったのは血肉のものであり、
御霊のものではありません。


御霊のものはあとに来るのです

第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、
第二の人は天から出た者です。


土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、
天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。


私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、
天上のかたちをも持つのです。


兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。


血肉のからだは神の国を相続できません。
朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。


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新約聖書のこのような記述も
私達に”天国は魂の社会である”と勘違いさせる原因と
なっているのではないかと想像していました。


ここでは私達人間が肉体だけではなくて
霊体をも持っている事に触れています。


つまり私達の体は物質の元素(ここでは土と言っていますが)から作り上げた
肉体と言う形態で存在しているように見えますが


それだけではなくて、天から出た物によっても
作り上げられていると言う説明だと思います。


私達は三次元を肉体を持って生きながら
同時に四次元を精神(魂)をもって生きている存在でした。


其の思考は四次元的なものであり
魂=精神自体も四次元の神の意識の分身であり
神の意識からのエネルギーを受け止める経路でもあります。


地で土(元素と言う物質)を持って作り上げた肉だけでは
それは生命が吹き込まれることはありませんし


そこに天からの神の意識の分身としての
魂が吹き込まれる事で生命が宿る事になるのだと言う
生命の科学の思考を思い出してください。


地の体を持って生まれ
天の体に蘇えさせられると言うのは勿論
理解を促すための例えで、


地球の人間は地に属するものとして
肉体と心を持って暮らし始め


精神を感じる事が出来るようになる事で
天に属する存在となる事が出来ると言う例えかもしれません。


生命の科学を前提に
”独断と偏見”で解釈してみたいと思います。


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神は其の意識を持って作り上げた法則に基づき
各々の種にそれぞれの体を与えます。


全ての物体が同じ元素で出来上がっているのではなくて
人間というフォーム(形態)もありますし


獣というフォームもありますし
鳥と言うフォームもありますし魚というフォームもあります。


また天上の体(霊体)もあり地上の体(肉体)もあり
霊体の発現の仕方と肉体の発現の仕方は異なっています。


太陽独自の役目や法則や進化もあり、月の役目や法則や進化もあり
星の役目や法則や進化もあり
個々の星によってその現れ方が異なっています。


死者の復活もこれと同じで
物質として作り上げられて、神の意識をもって生まれ変わり


卑しいものとして作り上げられ
栄光あるものに生まれ変わる。


弱い存在として作り上げられ強い存在へと変貌し


血肉で出来上がっている肉体として作り上げられ
神の意識に属するものとして生まれ変わるのです。


物質としての肉体があるのですから
霊魂としての体もあるのです。


聖書に「最初の人アダムは生きる者となった」
と書いてありますが
最後のアダムは生かす精霊となりました。


最初に存在したのは物質社会に属するもの(元素・心)であり
精霊(魂)に属するものではありません。


精霊(魂)は後から吹き込まれるのです。


人は最初、物質で作り上げられ
それはこの物質社会(三次元社会)で元素をもって
作りあげられた存在ですが


人はもう一つの側面である天から(魂という精神から)
でた物を持っている存在だと言うことです。


元素で作られた心は全て、
この元素を元としたフォームの存在で
(元々の元素の物質としての性質を強く受け告いでいると言う意味)


神の精神から出た霊魂なるものは
この神の意識に似ているのです。


私達は元素で作り上げられた肉体を持っているように
神の肉体としての魂を持つのです。


兄弟達よ私はこのことを言っておきます。


肉体を持った体を司る心をもってしては
神の国へと転生することは出来ません。


朽ちる肉体を司る心なる存在は
朽ちない永遠なる意識を相続できないのです。

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ここでは肉体という表現をしていて、
魂の両面である三次元的存在である”心”と
四次元的存在である”精神”


ではなくて単に”肉体”と”霊魂”と言う分類で
説明してくれていますが


ここでの”肉体”なるものが
私達の”心”なるものと同様の意味で
使用されているらしいことも次の記事の引用で触れることにします。


【血肉のからだは神の国を相続できません。
朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。 】


と言う箇所は、「私たちは一旦肉体的に死を迎えなければ
永遠の生へと進むことが出来ない」という内容にも
置き換えることが出来ると思います。


”天”と”地”なるものが聖書で触れられているときに
”天”と言う字を見て私たちは
”私達の持っている概念の天国”を想像するかと思いますが
そうではなくて、


神の意識の領域(四次元)と肉体の領域(三次元)
因の世界と結果の世界と置き換えて考えれば
聖書は正しく理解出来るのだと思います。


肉なるもの、御霊なるものも同様で
私達の心と精神の例えであると思います。


【地球人の苦悩を光の前の暗黒のように消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう】


私達にとっての本当のイエスの転生である人間の
この言葉の意志を実現できるのは私達なのです。


捏造だらけのこの社会で、
偽のキリストの蔓延するこの社会で、


私達は真の小さなキリストとして
イエスの言葉を伝えて行きたいです。

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P.S.


毎日部屋の中で盗聴されていること前提で
生命の科学や聖書の言葉を説明しています。


時には色々その日に閃いたことを触れることもあり、
記事に優先することも少なくありません。


ただ一番理解して欲しい人たちに
私が記事で書ききれない思いを
言葉や想念で伝えることが出来ないのが悲しいです。


そういえば地球の法則のサイトである
ふるやの森では”銀河連邦”なるブラザーズもどきが
イエスの元に地球の平和と次元上昇を訴えかけていました。


私は他人を躓かせるような事をしている人間だけは
どうしても放置が出来ません。


後に記事にしたいと思いますが、地球の支配者の実態に関しても
私達はその表看板に騙されてはいけないということを
忘れないで下さい。


真の支配者は表に出てくることはない。


スイスという永世中立国の中で
息を潜めて手ごまの動きと
地球の動きを見つめているのですから。

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無関係の話ですが
冒頭の下ネタ話ついでに触れたいことがあります。


私の”生命の科学”は82番目の記事まである
長い物となりましたが


実は6年程前には私は”恋愛ゼミ”というタイトルの
恋愛話を記事にしていたことがあります。


これも同じぐらい長い記事でした。


女性不信に陥っていたような状態の中で、
大学のゼミの個性的な先輩達に囲まれて暮らす中で


女性の素晴らしさや、時には怖さを感じることになった
そんな自らの体験談をネタにした話でした。


時にはとてもHな描写もありましたが
不幸な人生を送ってきた私の中では
その時代は一番楽しい思い出でもありそれを記事にしていたのです。


(本当はゼミに進む以前の入学当時の話で
クラブと学科の先輩達がそのモデルでしたが)


その頃の事を思い出して記事を書いていることが楽しくて、
私が文章を苦痛としなくなったのも
今から思えばその記事を書いていたためでした。


話は飛びますが恋愛感なるものは
おそらくは今の時代は昔とは随分と変わったものに
なっているのではないかと想像します。


それは若者だけではなくて多くの人間にとってです。


そして私達の恋愛感情は
時には自分のエゴを満たす対象を求めるものであり
自分の心地良さや欲求を満たすものになりがちだと思うのです。


ただ、恋愛経験に関しては
そのまま私達の宝になるものであると
私は考えています。


他人を思いやる気持ちも、
そしてその愛なるものが自分の心を満たすものなのか
そうではなくて相手への尊敬から出ているのか


それは経験しなければ理解できないものだからです。


性的なものを美化する気もありませんし
自分の過去の過ちを正当化する気もありませんが


恋愛は結果として私達が他人を理解する機会であり
その体験から多くを学ぶ機会でもあることを
私は主張したいと思います。


いい歳をして延々と
恋愛の現役を自称しているような人間達を
見習って欲しくはありませんが


伴侶なるものは”いつ選ぶか”ではなくて、
”誰を選ぶか”と言うことが大切だと思います。


性的な話は別にして、
多くの人と出会い、理解することで
そこから得られるものは大きなものがあると私は思います。


そして波動や心で惹かれるのではなくて、
尊敬できる相手を選ぶことが
きっと私達の進化にも役立つと思います。