普遍的真理VOL2 使徒の教え | 不幸のブログ 

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

先日からこそこそと動いていたHAARPですが


昨日は大き目の地震が発生していましたが
関連性はあるのでしょうか。。


目立たないように波を小さくしているように見えるので
地道に気象変動や地殻への関与を続けている可能性があると思います。


DATE          LAT  LON  MAG DEPTH km REGION
21-APR-2012 01:16:54 -1.61 134.23 6.6 29.8 IRIAN JAYA REGION, INDONESIA
20-APR-2012 23:14:32  2.22  93.39 6.1 34.3 OFF W COAST OF NORTHERN SUMATERA


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


所沢331、め787 黒の乗用車


過去数回は見逃しましたが今回はアウトです。


工作員協力者と認めました。


夜中からご苦労様です。


今現在も胃腸は異物で満たされていますし
それを利用しての顔面照射も続いています。


中心は金井のアル君と大家、
もしくはその関係者と協力者で、
中には金でアルバイト感覚でやっている人間もいるようです。



工作員のアル君が今度は性的な話による誹謗中傷(捏造)を
掲示板で始めました。


記事は出来上がったのですが
聖書の記事と一緒に公表したくないので
別の機会に工作員語録として紹介します。

-------------------------------------------------------------------


先日のイエスの奥義の話とパウロの手紙の内容で、
クリスチャンである理解者・覚醒者は
目からうろこが落ちることとなったと思います。


一方では聖書なる物を最近になって初めて読んだ方もいるかもしれません。


だからといって数十年間聖書を読んできた人間よりも
理解が不足し続けるとは限りません。


逆に、誤った内容や改ざんされた内容を鵜呑みにして
誤って理解して自らの価値観とした人間で、


この生命の科学と言うイエスの与えてくれた神の奥義を
理解できない、しようとしない人間よりも


私達生命の科学の理解者は、遥かにイエスの意志を
理解しやすい状況にいると言えるのだと思います。


妙な固定概念を持たず先入観を持たず
そして子供のごとく純粋な心で
それを受け入れることが出来るからです。


その上にイエスの言葉を正しく理解するための辞書を
私達は脳に内蔵しているような状態でもあります。


そして一方では既存の組織の中で
誤った解釈を真理として受け入れてきたクリスチャンは
この新たな辞書を内蔵することで


イエスの言葉の意味が
今までとは異なって理解しやすいものへと
変貌する事になったと思います。


組織の中では何の権限もない
罪深い末端の一信者とされている方でも


イエスの教えの真の意味を理解できる者は
聖書風に言えば神の国に入る資格を持つことになります。


もしかしたらそのような人のほうが
早々と奥義を理解して永遠の生へと向かう可能性も高いと思います。


「後のものが先になる。。」という

イエスの聖書の言葉どおりにです。


他人の教えを神の真理として受け止めるのではなく
自らの中から神の意識を受け止めて欲しいと思います。


先日記事で触れたイエスの使徒達の手紙ですが、
その中で私がお勧めできると触れた物が
見つかりましたでしょうか?


今日はその中の何箇所か気になる箇所、
私達の参考になる箇所を取り上げて紹介します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

貴方がたの中に知恵の欠けた人がいるなら
その人は、誰にでも惜しげなく咎める事なく
お与えになる神に願いなさい。


そうすればきっと与えられます。


ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。


疑う人は風に吹かれて揺れ動く海の大波のようです。

そういう人には主から何かをいただけると思ってはなりません。


そういう人は二心ある人で安定を欠いた人です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この文章を読んで最初に気がつくのは
アダムスキーが触れていた内容と
似ていると言うことかと思います。


「少しも疑わずに信じなさい。」
「二心ある人」


と言う記述です。


アダムスキーが疑わずに信じろと言ったのは
”精神で想念を受け止めた時”でしたし


二心と表現したのは”心の意識”と”精神の意識”でした。


ここでの記述が、生命の科学を理解している人間が
それを語ったのだとすれば、

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【貴方がたの中に知恵を欲する人がいるならば
その人は、誰にでも無償でお与えになる神に願いなさい。


そうすればきっと与えられます。


ただし、少しも疑わずに、信じて願い受け止めなさい。


疑う人の心は、
風に吹かれて揺れ動く海の大波のようです。


そういう人は主から知恵をいただけると思ってはなりません。


そういう人は意識が心と精神の間で揺れ動き
精神の安定性を欠いた人です。】


と解釈することができます。


私達が疑ってはいけないと言われたのは
疑いの想念なるものが精神から印象を受け止めることを妨害し


一方では受け止めた精神のイメージを、
心の動きが変貌してしまう可能性があるからでした。


”二心”に関しては、心の暴走を放置すれば
精神を感じる事ができなくなるために

アダムスキーが”二心”と表現したものでした。


さらに触れればイエスキリストは
「私達は神とお金の両方に仕えることは出来ない」
と取り上げ、


私達は精神を感じて神に仕えながら
心を持ってお金=物資社会に仕えることは出来ないと
触れていた内容にも繋がると思います。


これらの事を前提に、この節を読むと
理解しやすいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

すべての完全な賜物は上から来るのであって
光を作られた父から下るのです。
父には移り行く影はありません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

聖書の記述で上とか下とか触れられているときは
まずは”上”なるものは神や天や天国と訳される事になりますし


”下”なる物は”人間”や”地”と訳されることになります。


ただイエスキリストが”上”と触れたときには
生命の科学ではそれは、


人の精神(精霊)、神の意識、天国(金星など)
と解釈されることになりますし


”下”と触れたときは
”地球”、”人の肉体”、”心”と解釈されることになると思います。


イエスが
「私はこの世から出たものでない」と触れたときの


”この世”なども同様に”地球”と解釈されるはずです。


イエス「金持ちが救われるのは、らくだが減りの穴を通るよりも難しい」


弟子「ではどんな人が救われるのですか?」


と言う会話の後の、

イエス「”人”にはできませんが”神”には何でもできるのです」


とイエスが触れたときの”人”は”心”のことでしたし
”神”と触れたのは”精神(精霊)”のことです。


(心を持ってしようとしても出来ませんが
精神を持ってすれば何でも出来るの意味)


ペテロに対するイエスの言葉で


「このことを貴方に示したのは”人間”ではなく
”天にいます私の父”です」


と触れている内容は”人間”は”心”の象徴で
”天にいます私の父=神”は”精神”の象徴です。


私達が聖書の記述の中のイエスの比喩を理解すれば
聖書はもっと深く理解する事が出来るはずです。


そしてここの一文は


【すべての完全な賜物(能力・知識等)は精神から来るのであって


光を作られた神の意識から下るのです。


父なる神には移り行く影はありません。】


という事になると思います。


三次元を創造したのが四次元の神の意識なのですから
その存在の意識は
三次元では当然完全であることはいうまでもありません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ああ、愚かな人たちよ、
貴方は行いのない信仰が虚しいと知りたいと思いますか。


私達の父アブラハムはその子イサクを祭壇に捧げた時
行いによって義と認められたではありませんか。


貴方の見ているとおり彼の信仰は彼の行いと共に
働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして
「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義と看做された」


という聖書の言葉が実現し彼は神の友と言われたのです。


人は行いによって義と認められるのであって
信仰だけに拠るのではない事が判るでしょう。


同様に遊女ラハブも使者達を招きいれ
別の道から送り出したため
その行いによって義と認められたではありませんか。


魂を離れた体が死んだ物であるのと同様に
行いのない信仰は死んでいるのです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ここに関しては、新約聖書のイエスの記述以外で
珍しく”行動の伴った信仰が大切”と触れていたので


イエスの真の教えを受け継いでいると言うことで
引用しました。


イエスの使徒の記述であれば
「信仰に拘るのではなくて行動こそ、実践こそが
大切である」


と触れているはずなので


弟子達の手紙の中から、
その実践なる物、御心を行うことが大切だと言う一文が
消されている気配を感じています。


この使徒の記述からは信仰だけでなくて
御心を実践しろと言う強い意志が読み取れますので
内容の改ざんが少ないと判断しました。


信仰信仰と触れるのは
今の多くのクリスチャンにつながる意識ですが


新約聖書の多くの記述が

信仰に拘っていることからも


そこでの改ざんによる行動を伴わない信仰重視の姿勢が
今のクリスチャンに信仰中心の意識を持たせる結果に
なっているのだと思います。


肉体は精神(魂)によって命を吹き込まれるものであるように
信仰なる物はその実践によって魂が吹き込まれることになると
この使徒は触れているのだと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


貴方がたの心の中に苦いねたみと敵対心があるならば
誇ってはいけません。


真理に逆らって偽ることになるからです。


そのような知恵は上から来たものではなく
地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。


ねたみや敵対心のあるところには秩序の乱れや
あらゆる邪悪な行いがあるからです。


しかし上からの知恵は第一に純真であり
次に平和、寛容、温順でありまた、哀れみと良い実に満ち
えこひいきがなく、見せ掛けではないものです。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ここでも”上”とと触れていますし
それと反するものとして、ここでは”地”とか”肉”とか
”悪霊”と触れています。


ここでの肉なる物は肉体そのものではなくて
肉体を持つが故の”心”のことでしょうし


悪霊なるものはそのまま”悪い想念”と認識すべきだと思います。


精神で感じることが出来る”想念”や神の意識や閃きを
テレパシー含めて
”霊”とか”御霊”とか”精霊”と表現していると考えれば


聖書の多くの記述はここでも具体的事実として
理解する事が出来ると思います。


生命の科学で学んだように

心がエゴをもって発する意識の例として
ねたみ、敵対心、秩序の乱れを
悪しき想念をもたらす要素と触れ



神の意識である精神の意識として

平和、寛容、従順、哀れみ(同情)えこひいきがない(平等)

と触れています。


内容としてはアダムスキーやブラザーズの触れていた
宇宙意識、神の意識から出てくる想念そのものです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
願っても受けられないのは
自分の快楽のために使おうとして
悪い動機で願うからです。


貞操のない人たち、世を愛することは
神に敵することであることが判らないのですが。


世の友となりたいと思ったら
その人は自分を神の敵としているのです。


それとも「神は私達の内に住まわせた御霊を
ねたむほどに慕っておられる」という
聖書の言葉が無意味だというのですか。


しかし神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。
ですからこう言われています。
「神は高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みをお預けになる」


ですから神に従いなさい。


そして悪魔に立ち向かいなさい。

そうすれば、悪魔は貴方がたから逃げ去ります。


神に近づきなさい。そうすれば神は貴方がたに近づいてくださいます。


罪ある人達。


手を洗い清めなさい。


二心の人たち、心を清くしなさい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ブラザーズのマスターが触れていたように
私達が思考で因なる物を生んだときに
それがエゴに基づく物でない事が大切で


その動機が創造主の意識に叶ったものであることが
大切であると言うことでした。


私達はこの社会で”結果オーライ”などと言うことがありますが
因なる世界での動機なる物が結果以上に大切なのが


創造主の法であると言うことを私達は理解しなければ
ならないと思います。


次に触れたいのが、イエスキリストの言葉でも
頻繁に出ていた例え話やイエスの行動。


それをそのまま真に受けて解釈しないことです。


「パリサイやサドカイ派のパン種に気をつけなさい」
といわれた12使徒が、


その言葉からパンについて討論して
イエスにしかられる場面がありますが


イエスキリストは何事も頻繁に例えばなしで語られ、
聞いている人間が自ら思考する機会を与えていたと思います。


ここでの、使徒の
「手を洗い清めろ」という例えも


汚れた手(因)で何かをすると
その結果も汚れることになるからという例えで


心のエゴを行動の基準にせず
内なる精神から神の意識を感じて行動しろと言う
例えだと思います。


そして最後の「二心ある人達心を清くしなさい」
と言うのは言うまでもなく、


心を抑えて精神を感じるようにしなさい。
さらには心を限りなく精神に近づけなさい、
と言う例えになると思います。


この貞操のない世の中を愛すること
この社会の価値観に囚われてその社会に執着することは
神の意思に反することであると、ここで使徒が触れています。


「世と友達になる」、
つまりはこの世の中でうまく暮らしていこうとすることは
結果として神の意志に背く事になるのだと
触れているわけです。


もちろん現実社会がすべて悪いと言っているのではなくて、


この地球社会の実態を理解した上で
「この社会は神の意識からかけ離れているのですから
そこに適応してはいけません」


と言う事の例えだと思います。


「神は私達の内に住まわせた御霊を
ねたむほどに慕っておられる」


と言う記述で気になるのは、
御霊なるものを神は私達の内に住まわせていると言う事。。


つまり御霊=精霊なる物が
私達の内に住んでいるとこの使徒は触れているわけで


それこそが”精神”であると言う私達の認識と一致します。


ここでは「神に近づけ」と使徒は触れていますし
そうすれば悪魔は遠のくとも言っています。


言うまでもなく神なる物は精神の意識であり
悪魔なる物は心の意識を例えた物であると認識できます。


私達が生命の科学を学ぶ目的は、
私達の中の神の意識でもある精神を
限りなく正しく感じ表現できるようになることであり、


そのためにも心を限りなく精神に近づける事でした。


心の暴走を抑え精神を感じる事が
神を意識し悪魔を遠ざけると言うことであるとすれば


その上で心の価値観を限りなく精神に近づけることが
限りなく神に近づくと言う行為だと思います。


神の奥義としてのイエスの教えでもある生命の科学と認識すれば
それを理解しようと言う強い動機にもなるのではないでしょうか。


イエスの教えを理解しようと言う動機は
創造主の意識に叶う行為だと思います。


【地球の苦悩を光の前の暗黒のように消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべとしよう】


私達の学んでいる”真のキリストの教え”は
今、世に広報が始まったばかりです。