聖書のイエスキリストの奥義 | 不幸のブログ 

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


最近は聖書を読みながらも
その中でもイエスの言葉以外は興味がないと
無視していたので、


1999年のノストラダムスの大予言に関連して
聖書を再び読むようになった時期以来、


おそらくは13年ぶりに新約聖書の中の
”使徒の手紙”を読んでみました。


読んで判った事は、
間違いなく多くの捏造や改ざんが含まれていること。


その殆どが、近年のカトリック信者や
一部のクリスチャンの語るような、


歯の浮くような魂の篭っていない
奇麗事で綴られているようにも思えましたが、


中にはイエスの教えを正しく伝えている物もありましたし
(私がどの手紙について言っているのか探してみてください)


それと、今回イエスの12使徒への教えに関しての
ヒントとなる箇所を見つけました。


今日はそれに関して触れてみることにします。


イエスは12使徒に対して特別な教えを与えているらしい事は
聖書の記述からも読み取れますが


それが具体的にどのようなものであったかは聖書の中では
イエスの言葉としては取り上げてはいませんでした。


それを具体的に弟子が語ったとみられる内容を
今回見つける事になりました。


若い頃や13年前にはまるで理解できなかった
”精霊”や”啓示”の話にかかわる内容でしたが


今ではそれが何を意味するのかが
手に取るように理解できました。


十二使徒がイエスに与えられた奥義に関して
パウロがその手紙の中で触れている箇所が
”コリント人への手紙”の中にあります。


この”神の奥義”と言う記述は
パウロの書いたとされる手紙の中で
その後も数回出てくることになりますが


その”奥義”を彼ら12使徒がイエスから学んで知っていたからこそ
彼らはイエスの言葉を他の誰よりも理解する事ができましたし


彼らはイエスキリスト同様に
神の御心を語り、人々を導く事が出来たのだと思います。


そしてその奥義とは一体どんなものであったのか?


そしてそのために彼らは一体どんな方法を
イエスに教えられることになったのか?


そのヒントとなる内容を含んでいると思えた箇所を
聖書から引用して紹介したいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

コリント人への手紙Ⅰ2章4節~


さて兄弟達、私があなた方のところに行ったとき、
私は優れた言葉優れた知恵を用いて、
神の証を述べ伝えることはしませんでした。


なぜなら私はあなた方の間でイエスキリスト、
すなわち十字架につけられた方のほかは、
何も知らないことに決心したからです。


あなた方と一緒にいた時の私は弱く恐れおののいていました。


そして、私の言葉と私の宣教とは
説得力のある知恵の言葉によって行われたものではなく、
御霊と御力の現れでした。


それはあなた方の持つ信仰が人間の知恵に支えられず、
神の力に支えられるためでした。


しかし私達は成人の間で知恵を語ります。


この知恵はこの世の知恵でもなく、
この世の過ぎ去っていく支配達の知恵でもありません。


私達の語るのは”隠された奥義”としての神の知恵であって
それは神が私達の栄光のために
世界の始まる前からあらかじめ定められたものです。


この知恵をこの世の支配者達は誰一人として悟りませんでした


もし悟っていたとしたら栄光の主を十字架に
貼り付けたりはしなかったでしょう。


まさしく聖書に書いてあるとおりです。


「目が見たことのないもの、


耳が聞いたことのないもの、


そして人の心に思い浮かんだことのないもの。


神を愛する者のために
神の備えてくださった物はみなそうである」


神はこれを御霊によって私達に啓示されたのです。


御霊はすべてのことを悟り、神の深みにまで及ばれるからです。


一体人の心の言葉はその人のうちにある霊のほかに
誰が知っているでしょう。


同じように、
神の御心のことは、神の御霊の他に誰も知りません。


ところで、私達はこの世の霊を受けたのではなく
神の御霊を受けました。


それは恵みによって神から私達に賜ったものを
私達がしるためです。


この賜物について話すには、
人の知恵に教えられた言葉を用いず、
御霊に教えられた言葉を用います。


その御霊の言葉を持って御霊のことを解くのです。


生まれながらの人間は御霊に属することを受け入れません。


それらは彼には愚かな事だからです。


また、それを悟ることができません。


なぜなら御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。


御霊を受けている人はすべてのことをわきまえますが
自分は誰によってもわきまえられません。


一体誰が主の御心を知り、
主を導くことができたか。


ところが私達には、キリストの心があるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

もう一つの訳も引用します。


ネットで同じ”コリント人の手紙”を取り上げて
訳していたものです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、
神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。


なぜなら、わたしはイエス・キリスト、
しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、
あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。


私があなたがたの所に行った時には、
弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。


そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、
巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。


それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、
神の力によるものとなるため。


しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。


この知恵は、この世の者の知恵ではなく、
この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。


むしろ、わたしたちが語るのは、
隠された奥義としての神の知恵である。


それは神が、私達の受ける栄光のために、
世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。


この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は一人もいなかった。
もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。


しかし、聖書に書いてあるとおり、
「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったを、
神はご自分を愛する者達のために備えられた」のである。


そして、それを神は、御霊によって
私達に啓示して下さったのである。


御霊は全てのものを極め、
神の深みまでも極めるのだからである。

いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、
誰が知っていようか。


それと同じように神の思いも、
神の御霊以外には、知るものはない。


ところが、私達が受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。
それによって、神から賜った恵みを悟るためである。


この賜物について語るにも、私達は人間の知恵が教える言葉を用いないで、
御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。


この私達が受けるものについて語るためにも
生まれながらの人は、神の御霊を受けいれない。


それは彼には愚かな物だからである。


また、御霊によって判断されるべきであるから、
彼はそれを理解する事ができない。


しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、
自分自身は誰からも判断されることはない。


「誰が主の思いを知って、彼を教える事ができようか」。
しかし、私達はキリストの思いを持っている。


誰が、私達の主人イエスの思いを持って
彼の教えを教える事が出来るだろうか。


しかし私達にはキリスト(神の真理、それを伝道する者)
の心があるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

説明するまでもなく、
私と共に学んでくれている方、そして覚醒者は


ここでパウロが”神の奥義”と呼んでいる物の正体を
理解できるかと思います。


イエスが12使徒を定め、その人間達に与えた知恵は
イエスが神の奥義として彼らに与えたもの。


それは神の御霊の声を聞き、それを語るための手段。


それは人の霊(心)ではなくて、
神の御霊(精霊)によって告げられる物であったわけです。


それを理解していたこの世の支配者は存在せず、


十二使徒はそれを与えられたことにより
自らの心の思考ではなく


その奥義を使用することによって
一般民衆へのイエスの言葉の宣教が可能にもなった。


自ら、何を語ろうかとか
どんな立派な言葉を告げようかと思考することなく


その奥義によって、
精霊を通じて彼らが語るべき神の意志、イエスの言葉を
導いてくれたと言うことです。


そこから与えられる知恵は、
人間が作り上げたこの世の知恵ではなくて


私達が見たことも、聞いたことも、
思い浮かべたことも無い様な
全ての知恵を包括したもの。


それは人類が創造される以前から
神が用意して置いてくれた物であり
神は精霊を通じてそれを彼らに伝えてくれた。。。


人間の思いを知っているのは人間の心であり


神の意志を知っているのは神の精霊であり


彼らはそれを受け止める奥義を授受した事により
神の精霊を受け取り神の意思を受け止める事になった。。。


その意志を語るにも、
彼ら12使徒は自らの心を持って語るのではなくて


そのままの意志を受け止めたままの状態で
閃きのまま語ることになる。


生まれながらの人間は
彼らが受け止めたものを語るにも


閃く神の意思や想念を受け止めることはなく、
例え感じたとしても彼らはそれを理解することが出来ない。


しかし12使徒はイエスによって与えられた奥義により
その事を理解して、それを正しく受け止めることが出来た。


そして彼らはイエスの教えを、
自らの精神を通じて感じ取った神の真理(キリスト)を、
語ることが出来たという話だと思います。


私達覚醒者と理解者には
多くの説明は要らないと思います。


聖書の精霊なるものは私達の精神であり
神の御心は精神の感じる神の意識


上から降りてくるとされるものは
ブラザーズからのテレパシーであり神の意識、


ここでの”霊”は人の霊なるものは人の魂の側面としての心であり
ここでの神の御霊は、人の魂の側面としての精神の事だと思います。


そして私の独断と偏見で
この文章を要約して見ます。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて兄弟達、私が貴方のところに行った時には、
私は自分の心で考えた説得力のある言葉や知恵を用いて、
貴方がたに神の証を述べ伝えたわけではないのです。


なぜなら私は貴方がたの間でイエスキリスト、
すなわち十字架につけられた方の教えてくれた事以外は
何も受け入れないことに決めたからです。


貴方がたと一緒にいた時の私は
心が不安で恐れおののいていました。


私の言葉と私の宣教は、
説得力のある心の思考による知恵によって行われたものではなく、
精神と神の意識によるものでした。


それは(私の布教により)貴方がたの信仰が
人間の心を持って作り上げた知恵によるものではなく、
神の力によるものとするためです。


しかし私達は資質のある人間達の間では知恵を語ります。


この知恵は心を持って作り上げた知恵ではなく
この世から過ぎ去っていった支配者の知恵でもありません。


私達の語るのは隠された奥義としての神の意識であって
それは神が、私達人間の進化のために
世界が創造される以前からあらかじめ定められていたものです。
(宇宙の法則)



この知恵をこの世の支配者達は
誰一人として理解することが出来ませんでした。


もし理解していたなら、
私達にその知恵を与えてくれた私達の主人イエスキリストを
十字架に貼り付けたりはしなかったでしょう。


まさしく聖書に書いてあるとおりです。


しかし、聖書に書いてあるとおり
「目がまだ見たことのないもの、耳がまだ聞いたことがないもの


人が心に思い浮かべたことがないものを
神はご自身を愛するものために備えられていた」のです。


そしてそれを神は精霊によって
私達に啓示してくださったのです。


精霊(精神)はすべての事を理解していますし
神の深みにまで及ぶものだからです。


一体人の心の思考はその人の内にある心の他に
誰が知っているでしょう。


同じように神の意識は神の精霊(精神)の他に
誰も知りません。


ところで私達は、
この世の想念を受け止めたのではなくて
神の意識を受けました。


それによって、神から受け賜った知識を理解するためです。


私達は人間の心を持って考えた知恵が教える言葉を用いないで
精霊(精神)の教える言葉(印象)を用い、
精霊によって精霊の言葉を解釈するのです。


生まれながらの人間は精霊(精神=印象)を受け入れません。
それは彼にとっては愚かな事だからです。


またそれは精神によって判断されるべきだから
彼はそれを理解することが出来ないのです。


しかし精霊(精神)を理解するものは
すべての事を理解することが出来ますが、
自分自身は誰からも理解される事はありません。


誰が、私達の主人イエスの思いを持って
彼の教えを教えることが出来るでしょうか。


しかし私達にはキリスト(神の真理、それを伝道する者)
の心があるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


イエスが12使徒に与えた究極の奥義


それは言うまでも無くスペースブラザーズ直伝の
”生命の科学”(精神を理解すること)
であったと言う事だと思います。


【地球人の苦悩を光の前の暗黒の様に消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう】


この奥義を理解している人間こそが
地球の苦悩を消し去る光となることが出来る。


そして私達覚醒者はその奥義を学んでいるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


P.S.


地球の法則に囚われている人間や、
理解する気の無い人間にしてみれば、
この記事全てがこじつけ扱いされるのかもしれませんが


資質を持った人間だけでもそれを理解して
実践してくれれば


恐らくイエスキリストもアダムスキーも
喜んでくれると思います。


聖書に隠されたイエスの奥義を十分に理解して
それを学び実践して精神を進化させ
小さなキリストとなって地球の闇を照らして欲しいと思います。


私が今回の生で
このことに気がつき紹介できた事をうれしく思います。


そして結果としては自称イエスの使徒となれる人たちに
イエスの奥義を伝えることが出来たと
言うことになるかと思います。


生命の科学は一時的に学び
その後中断するものではありません。


私達は生ある限りこれを学び続け
12使徒に負けないような資質を作り上げ、


闇を照らすだけではなくて
次からの自らの永遠の生へのステップにもしていって
欲しいと思います。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー