北の果てから日本を思う VOL4 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

今日四つ目の記事です。



私の寝言一杯の記事です。

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最近地方に多い大型店舗。

ドラックストアにスーパーマーケットに家具センター。


大体が街の近郊に位置していてそのために多くの場合は

地元の住民の自動車での移動を強いる状態を作り出しています。


もっと街の中央にあれば自動車など無くても買い物にいけますし

そんな店が集中する事で人が大勢集まり交流も増えますし、

大型店近辺に商店街があれば

その地元商店街も少しは活気づくのでしょうが、


不思議な事に大体が大型店舗は町の中心から離れる場所に作られます。

それは勿論建築に当たっての土地の価格などの事情もあるのでしょうが

それだけでは無いと想像しています。


つまりは意図的に人の流れを分散させる事、

そして自動車の需要を増やす事、

さらには地元商店街を潰す事です。



以前アメリカの大店舗の日本への出店が認められるようになってから

日本は地方中心に地元商店街の閉店が相次ぎました。


勿論その傾向は地方に限らず、

都内でも駅前に大きな店舗が出来、その中にテナントでも出来れば

人々の買い物の中心はそんな場所ばかりが中心となり



地元の老舗の商店街は大きなダメージを受けて

その多くが姿を消す事になりました。


一般庶民にしてみれば

大型店舗が出来て便利な場合も多いのですが

そのために自動車での移動が半ば当たり前にさせられたり


商店街で近所の人間との交流をしていたような場所が

事実上無くなってしまうのですから

一長一短だと言えます。


しかしながら日本では地方においてのこの傾向は止まる事はありませんし

今後もどんどんと増加していく事と思います。


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稚内でも多くの大型店舗が出来ていました。


私が住んでいた20年以上前には、


駅前の商店街こそが、街の買い物の中心であり人々の交流の場でもありました。


そんな事情もあり、自動車が無くてもバスでの移動も有効でしたし

街の中は人も多く活気もありました。


それがどんどんと廃れていって、一方では大きな店舗が出店され

それまでの主役だった商店街の空間は買い物の場所としての

機能、人々の交流の場としての機能を失ってしまいました。


さらに大店舗でも、
一時は稚内初のロッテリアやミスタードーナツの

テナントを入れた事で多くの客を集客していた店が


今度は別の地域の開発により

廃れつつあると言う姿も見てきました。


街は大店舗の出店と共に変貌していたわけです。


今一番栄えていた場所は

広い駐車場があり、そこに複数の機能の店舗

(食料品店、薬局、ホームセンター)が並列している

場所となっていて


街中で活気があるのもまさにその場所。

そしてそこは電車の駅とはかけ離れた場所に位置してました。


私のような足の無い人間であれば独自に出かける事も出来ない場所で

勿論観光客であれば立ち寄る事も無いと思います。


そしてそんな場所こそが街中で一番人の集まるような場所。


新しくとても綺麗な店舗が印象的でした。


そして今駅前にも新たな店舗が開発中。

人々の流れはいくつかに分割されて

新たな交流場所を作り上げていく事になるのかもしれません。


しかしながらそんな傾向に共通するのは

やはり自動車の重要性が高くなる事と、

小規模な個人店舗がどんどんと淘汰されていく事。


日本は大店舗法の実地以来

規模の経済によるコスト削減が可能である大型店舗ばかりが景気が良くて


中小企業は全て大型店舗に客を取られる傾向が続いていると言う事です。


自由競争といいますが規模の経済を考えれば

小店舗は大型店にはかないません。


つまり弱小資本では巨大資本には商売では勝てないと言う事です。

そんな傾向が経済の全般に通じて進んでいて

日本経済全体を覆っていこうとしているわけです。


それが一体何を意味するのか?


食品含め必需品を全て大企業が管理する事になりますし

全ての産業が一部の大きな資本家の手による寡占状態に

変貌していると言うことです。


寡占状態になれば人々は店舗を選択しようにも

選択の余地が限りなく少なくなります。


少し飛躍しますが、極端なことを言えば、

一山300円の国内の安全な野菜が食べたいと思っても

一山200円の中国産の野菜を買わなければならなくなる。


市場に出回る食品や商品に選択の余地もなくなるという事です。



全ての産業で同様な傾向が進むのですから

商品も画一化することでしょうし後は価格の問題となるのかもしれませんが

寡占となれば企業は一定の利益を享受するためにも

その後は出血大サービスもなくなります。


寡占なのですから放って置いても客は来るし

その店で買い物をするしか選択肢は無くなるのです。


寡占の弊害はマスゴミを見ていれば理解できると思います。

競合相手が居なくなり悪い意味で安定した状態では

スポンサーや特定の人間達の手に拠って

企業は変貌され時にはそれが私権のために利用される事にもなる。


そんなことが寡占化された多くの企業内では起き得るのです。

つまりはその資本家の意識がそのまま一般庶民にまで影響を及ぼす事になる。


しかも一般庶民はその影響を受ける事を拒絶するためには

サービスを受ける事を止めるしか手段は無いわけです。


そして巨大資本は自分達の都合の良い店舗を都合の良い場所に配置して

人々を誘導して、都合の良い商品を販売し都合の良い環境や文化を作り上げていく

そんなことも可能であると言う事です。


さらにそんな巨大資本や企業同士が提携すれば

人々の犠牲の上に自らの利益を最大限にする事も可能ですし


ユダヤのような悪意を実現させようとすれば

人々にとって実は心身に良くない物を販売し続けて

家電や食料品や家具等

全てに拠って人間の環境や健康を破壊するような事も可能だと言う事。


売る側が不特定多数ではありえなかった状況が

寡占状態では起き得るということなのです。


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今の日本国内の人間の意識

いろんな意味でその価値観は彼ら好みに作り上げられてきたと思います。


人々は便利だと言う事で新たな家電に飛びつき

小さな脳での工夫や手先の手間を省いて

何でも機械で作業をしようとする。


移動一つ考えても、

自分の足を使わないで自動車で移動し

体の方も退化させている。


家の中は家電で満ち溢れ、そこからは危険な電磁波が出まくっていて

冷蔵庫の中は実は不健康な成分を含有した食料品で一杯。


そんな環境ではいくらでも病気になるでしょうし

その上に意図的に病や死へ人々を誘導しているような人間達が

工作員として暗躍している。


これが如何に危険な事であるかと気が付く事が出来れば

例えその環境に晒され続ける事は避ける事が出来ない事であるとしても

未だ自分の意識だけははっきりと持ち続ける事が出来る。


でも今はその意識すら危うい
そんな状況へと誘導され様としているのだと思います。


人々は一生懸命働いては一生懸命消費する。

それは彼らにとって予定通りの行動なわけです。


家電産業も食品業も、自動車産業も、製薬業界も

さらには医療関係者もしっかりと人々の消費に拠って

利益を上げることが出来る。


人々を単なる労働ロボット、消費ロボットに変貌できれば

その傾向はさらに強まる事でしょうね。


続く