千葉県大多喜町は、中世には小田喜(おたき)と呼ばれていた。小田喜が何時、大多喜に変わったのだろうか。
町の構成
ともあれ、大多喜は江戸時代は房総有数の城下町であった。
大多喜は房総では、佐倉、関宿、久留里、佐貫と肩を並べる立派な城下町であった。商人町は久保町、桜台町で成り立ち、宿屋は新町にあったとされている。
城下町は鍵折型で構成され、職人町は紺屋町、田丁、猿稲町で形成され、
江戸時代の人口は1万人から1万2千人程度であったと推定されており、この人口数は、今の大多喜町の人口とほぼ同じであるが、江戸時代の日本の総人口が3,000万人程度であったことを考慮すれば、実質的に今の4倍規模の人口を抱える大都市であったといえる。
寺町の由来と意味
大多喜の郊外の外廻川(現在は夷隅川という)には寺院を20余り配置した。この寺院の配置を寺町と呼んでいた。
これは城の防衛に役立てる軍事目的のためであるが、また民衆をいずれかの寺院の檀家として登録させ身元を保証する寺請け制度を導入して民衆支配の手段に用いたと見られている。
この寺院の中の桜谷寺(おうこくじ)は本多忠勝が母親のために建立して寺である。
また、良信寺(りょうしんじ)は本多忠勝自信の菩提寺である。
良信寺は現在、良玄寺と呼ばれている。
大多喜のタケノコ
大多喜は現在でも、豊かな自然に囲まれた美しい農村で大多喜城、薬草園、大多喜県民の森が有名である。
この大多喜にプール仲間と一緒に大多喜のタケノコ刈り出かけた。
大多喜のタケノコはアクがないそうで、茹でたお湯も捨てないで味噌汁に使える。
1時間くらい、タケノコ刈りに汗を流した。竹の周りの地面は比較的柔らかいが竹が縦横無尽に根を生やしているので掘るのはそれほど楽ではない。もっとも、地元の助っ人が掘るのを助けてくれる。
私は、半分掘って後は、助っ人にお願いしてしまった。
昼食は、タケノコご飯、タケノコの味噌汁、タケノコの刺身、タケノコの天麩羅などで新鮮な山の幸に舌鼓をうった。
大多喜城
タケノコ狩りの後、大多喜城に出かけた。
大多喜城は徳川四天王の呼ばれた本多忠勝がこの地を与えられ、城を築いたものである。
家康は、もともとこの地を治めていた里美の反乱を恐れて、本多忠勝を、抑えとして、この地の所領を与えたと見られている。本多忠勝のこの地の所領は10万石であった。
城は空掘で囲まれ、急峻な土塁があった。堅固な城の作りである。
大多喜城の復元
大多喜城は天保年間に消失しており、昭和50年に復元されている。
天守閣は4階建てで、天守閣からは見晴らしがよい。
西を望むと房総の美しい山々が見え、東は大多喜の町の家が軒先を並べているのが望見できる。
城(博物館)の軒先瓦には初代の城主の本田家の家紋である「丸に立葵(たちあおい)」と最後の城主の松平家の家紋の「三つ扇」が彫られている。
なお、大多喜城内で使われていた門の一つである藩医門が現在、唯一存在している大多喜城たの建造物であるが、現在は大多喜高校の玄関東側に設置され、千葉県指定史跡となっている。
大多喜水道
このあたり一帯には、井戸を掘っても水が十分に補給できなかったようで民衆が水不足に苦しんだといわれている。そのためか、大多喜城には大井戸が掘られて県の文化財として指定されている。
最後の領主の大河内(松平)正質は領民のために水道を建設をはじめ、明治2年11月に工事を開始し、明治3年5月に完成しました。千葉県最古の水道といわれている。
この水道は全長5.1kmあり、そのうち3分の2は水トンネルである。
この水道は城下町200戸の上水道として使われただけでなく、20Haの水田の用水路としても使用され、さらに5Haの水田が開発された。
下の写真は、その水トンネルの遺跡である。
大多喜町の心、蓮華畑
大多喜は、蓮華畑も有名で、帰途、蓮華畑に鯉幟が風にたなびく田園風景を楽しんできた。
大多喜の人々の心の優しさに触れることができたと思う。
蓮華咲く 大多喜の村 風和む







