皆さんこんにちは、荒川です。
今回は走り始めた頃からサブエガ達成までをざっくり振り返ってみたいと思います。
※自分語り的な長文になりますが、ご了承ください。
ランニング開始~デビュー戦サブスリー失敗
きっかけは会社での飲み会でした。
ある夏の日に会社で皇居ランをやるというイベントがあり、何となく参加してみてその後の飲み会でのことでした。
確か1km6分ペースで2周したと思います。
で、当時既にサブスリーだった爽やかイケメンと、サブスリーまであと一歩のベテランおじさんから「初心者でそれだけ走れるならフルマラソンを目指してみてはどうか」と乗せられて、「じゃあ明日から練習します」と答えたのが運の尽きでした。
で、何も分からないなりにたまたま近所にあった荒川河川敷を週に何回か走り、ダニエルズ博士のランニングフォーミュラを読み込んだりしつつ我流でトレーニングをしていました。
最初の頃は1km5分半ペースで息が上がりまくり、5km走ったら筋肉痛で翌日走れないとかそんな感じでした。
当時は「マラソンサブ2.5を目指そう」なんて夢にも思ってなかったです。
そしてフルマラソンデビューが板橋シティマラソンに決まり(東京マラソンは当然落選)、張り切っていた矢先にCOVID-19なるもので社会情勢が一変。
板橋シティマラソンも開催中止、いつ大会デビューできるかも分からないままただ一人で練習を続ける生活に突入しました。
そんな感じで段々と走れるようになってきて、「デビュー戦でサブ3.5を目指したい」などと考えるようになり、更に練習を続け、近所の30kmレースに出場しました。
そこで2時間2分で走ることができ、この瞬間「デビュー戦でいきなりサブ3を狙う」とハッキリ意識しました。
その後、徐々に開催される大会も現れ始め、2022年12月の加古川マラソンに出場しました(このとき既に走り始めてから3年以上経っていました)。
そこで「マラソンはそんなに甘いスポーツではない」と知ることになります。
低温と強風のコンディションの中、まだまだ基礎体力もきちんと仕上がっていない実戦経験ゼロの男がサブスリーなどできるはずもなく、終盤ボロボロでゴールタイムは3時間1分52秒でした。
残り500mぐらいの地点で手元の時計が3時間を指した瞬間はおそらく一生忘れないでしょう。
ゴールした瞬間、吹き荒れる強風を浴びながら一人で泣いていました。
その5分後ぐらいに「もう一度鍛え直して来シーズンまた挑戦しよう」と決意を新たにしていました(今思うと、もしかするとここで辞めていたかもしれないです)。
サブスリー達成
2023年のシーズンから再開される大会も増え、選択肢がグッと豊富になりました。
特に練習内容は変えない(1km×5のインターバルや20分テンポランをポイント練習にして、残りはEペースのジョグで繋ぐ感じでした)ままサブスリーリベンジに選んだのは、過去に住んでいた仙台で開催される東北みやぎ復興マラソンでした。
以前仙台に住んでいたこともあり、昔からの悪友たちも応援に駆け付けてくれました。
サブスリーペーサーが率いる集団には付かず、その少し前でマイペースで走ることを選択。
しかし、30km過ぎで集団に飲み込まれたのでそこで切り替えペーサーにひたすら付いていくことにしました。
このとき、ペーサーに黙って付いていくことの効果を知ることになりました。
普通であれば30km過ぎでペースダウンし始めた時点でかなり厳しい状況なのですが、そのままあれよあれよという間に35km地点、40km地点と粘り続け、とうとうゴール400m手前からペーサーの前に出て一気に加速。
そこから順位を20個以上上げて、2時間58分52秒でサブスリー達成となりました。
必死の形相でゴールに飛び込んだ時の写真と、その数分後にフィニッシャーズタオルを掲げた笑顔の写真とを比べて、まるで憑き物が落ちたような感じでした(笑)
終盤に沿道から「3時間切って人生変えろ!」という檄が聞こえてきたのですが、その方の言ったとおり、ここで人生が変わったかもしれません。
初めての別府大分毎日マラソン
加古川マラソンのタイムで応募した別府大分毎日マラソンに当選したため、次のターゲットはこのレースとなりました。
サブスリーを達成して心身ともに気力に満ち溢れた状態で練習を再開しましたが、そうすんなりとはいかず、このタイミングで故障してしまいました。
これまでに経験したことのなかった症状で、前腿が痛み酷く張っていました。
仕方がないので少しずつ走れるだけ走るということを繰り返していると、幸いにも徐々に状態が上がってきて、正月頃には15kmのEペース走がコンスタントにこなせるところまで回復しました。
「これなら出場して完走はできそうだな」という手応えを掴んだところで欲張らずに残りの期間は調整に徹しました。
(この判断が結果として大正解でした)
本当に馬鹿の一つ覚えのごとくEペース走を繰り返し、最後の1週間だけ調整して当日を迎えるという開き直り状態で臨みました。
当日は気温が7℃で風もほとんどないという絶好のコンディション。
心理状態は一言で言えば「自然体」だったと思います。
入れ込んでいるわけでも弱気になっているわけでもなく、起床から会場入り、スタートと粛々と進めていました。
そしていよいよスタート。
最初の感覚は「思ったよりも身体が動く」でした。
自然と1km4分7秒あたりのペースに収まったので、そのまま刻むことにしました。
10km地点で別大国道をUターン、そして20km地点でスタート地点のうみたまご前まで戻ってきたとき、近くの選手と「戻ってきましたね」『まだ始まってもないですけどね(笑)』などと会話する程度には余裕がありました。
※「マラソンは30kmからが始まり」という格言があり、それを交えた冗談です。
そしてその30km地点を迎え、35km地点に到達しても変でした。全然苦しくならなかったのです。
何が何やら分かりませんでしたが、苦しくないならそのまま進むのみで、40km地点を超えフィニッシュ地点のジェイリーススタジアムに向かう最後の堤防道路で飛んできた声援はハッキリと覚えています。
「2時間50分台前半いけるぞ!」「55分切れるぞ!」
そうなんです、この大会は2時間55分以内のタイムを持っているとカテゴリー2(上から順にカテゴリー1~4まであります)に入れるのですが、おそらく沿道の観客たちはそれを知って応援してくれていたわけです。
そんな応援にも後押しされ、得意のラストスパートもしっかりとかかり、2時間54分9秒で2時間55分切りとなりました。
12月にまともに練習をできていなかったことを考えると、奇跡的な結果だったと思います。
今でもこのレースが自分の中でのベストレースになっています。
サブエガならず
さて、サブスリーを達成して迎えた次のシーズン。
「もっと速く強くなりたい」と強く思うようになっていました。
(どなたかの応援のとおり、人生が変わったかも知れません)
ここまで我流で何とかやってきたわけですが、「このままでは遅かれ早かれ伸び悩む」と思ったため、色々と調べてみたり、指導実績のある方に教えを請うたりして改善できる部分を改善しました。
具体的な話は↓の記事で紹介したような内容がメインです。
そんなこんなで夏の暑さも残暑も厳しい中、再びの東北みやぎ復興マラソンでサブエガを取りにいきました。
1年前に引き続き、悪友たちの応援もあり準備は万端でした。
序盤はいいペースで刻み、2時間45分ぐらいのペースでレースを進めていましたが、かなりの強風で時折身体を横方向に持っていかれるぐらいの横風を浴び続けていたせいか、25kmあたりで既に苦しい状態でした。
30kmの通過が1時間59分で、「これはもう最後までは持たないな」と思いました(方角からして、終盤はこの強風を思い切り浴びることになるのは分かっていたため)。
終盤は本当に辛かったのを覚えています。
35km地点ではもうサブエガは不可能な状態で、37km地点あたりから「もう辞めてしまおうか」と何度も思いました。
相も変わらず吹き続ける向かい風に、40km地点あたりからは怒りに任せたような状態で走っていたと思います。
フィニッシュ地点MCのがんばれゆうすけ氏が「これは普段から相当鍛えていなければ決して出せないタイム、今フィニッシュです!」と盛り上げてくれ、そのまま倒れ込もうとしたのですが、「フィニッシュした選手の方は立ち止まらずに導線に従って進んでください」という無慈悲な放送に従って歩き続けました。
それでも倒れ込むと車椅子を持った救護班が飛んでくるので、なるべく頑張りましょう!
タイムは2時間51分52秒、PB更新でしたがそこに喜びの感情はありませんでした。
フィニッシュ後、悪友たちと合流するまでの間は「合わせる顔がない」といった気持ちで辛かったのですが、予想に反して彼らの目にはかなりいい走りに映っていたらしく、「1年前とは走りの圧が全然違った」「1年で7分も早くなってて素晴らしい」など惜しみない労いの言葉をかけられ、とても嬉しかったのを覚えています。
その日の夜と翌日は仙台で遊びながら解放感に浸り東京に戻ると、ピークを合わせて全力を出し切った反動が思い切りきて、声が出なくなっていました。
その後1週間は全く走ることもできず、在宅勤務で仕事だけ何とかこなして終業後PCを閉じた瞬間ベッドに潜り込んでそのまま翌朝まで寝込む日々が続きました。
神経もかなりやられていたようで、明らかに集中力や頭の回転が落ちているのが分かりました。
裏を返せばしっかりピーキングができていたことになるので、方針自体は間違ってなかったと確認することができた点が収穫でした。
2度目の別府大分毎日マラソン、サブエガ達成
東北みやぎ復興マラソン後の強制休養を経て、少しずつ練習を再開。
基礎構築から組み直す時間はなかったので、移行期、特異期、調整期と進めていきました。
夏までの基礎構築の時点でベースとなる能力自体はほぼ決まっているため、後はマラソンに特化した能力にシフトしていくことになります。
ざっくりと言えば、特異期に持久面は35km走や40km走をマラソンレースペースの90~95%でこなせるようになり、スピード面はマラソンレースペースでのテンポ走15kmや変化走をこなせるようになれば良いわけです。
クリスマス前あたりの金曜日に40km走をやり、河川敷からあちこちで忘年会をやっているであろう街明かりを見たとき「もう戻れないところまで来てしまったかもな」と思いました。
別府大分毎日マラソンは2月の第一日曜日に開催のため、ちょうど年末年始に帰省しているあたりが特異期の大詰めになります。
おかげで親からは「息子がおかしくなってしまった」というような目で見られるハメになりました。
実家から家に戻ったその日も荷物だけ片付けてそのまま35kmをマラソンレースペース95%でこなしていました。
そんなこんなで調整期は走力を維持しながら疲労を抜いてレース当日にピークを持ってくるというセオリー通り、順調に調整を進め、当日を迎えることができました。
今度はカテゴリー2での参加だったので、当日はうみたまごの建物の中の空いているスペースを使って準備ができました。
精神状態は1年前と同じ自然体でいられました。
「今日これから自分はサブエガを達成するんだな」という静かな自信があったと思います。
そしていよいよ号砲。
1kmあたり4分を少し切るペースで淡々と刻んでいきました。
30km地点までは完全に予定通りのレース運びで「よし、いける。シミュレーションの中で“予定通り”のパターンだからこのままのペースで」といった感じでした。
しかしそのまま最後までいくことは許されず、32km地点あたりから急激にキツくなり、35km地点あたりからペースダウンが始まりました。
37km地点からは地獄で「これはもはやスポーツのキツさではない」といった感じでした。
40km地点で貯金を使い果たし、ここから元のペースに戻さなければサブエガはできない瀬戸際の状況でした。
要するに「元のペースに戻す」以外の選択肢はなかったわけで、「戻したところで100mで失速するかもしれない」とも思いましたが、「いかなきゃ…」といった感じでペースを上げ始めました。
40~41kmのラップタイムは4分1秒、ここで初めて「いける」と思いました。
「あと1.195km、必死のパッチでぶん回すだけ」「走れ!クソ野郎!」などと自分に言い聞かせて最後の堤防道路を突き進んでいる間、既に見えているジェイリーススタジアムの入り口までが何と遠かったことか。
沿道からの「2時間50分切れるぞ!」「サブエガ間に合うぞ!」「諦めるな!出し切れ!」といった声援を力にして突き進み、スタジアムのトラックを夢中でスパートをかけてゴールに飛び込みました。
タイムは2時間49分51秒、一度はこぼしかけたサブエガを何とかもぎ取ることに成功しました。
40km地点からゴールまでシューズを履いている部分が足湯に浸かっているかのように熱く、心拍数は最大心拍数の97%まで上昇し、ゴール後は手指の痺れが酷く受け取った500mLペットボトル入りの飲み物を持っているのが辛い有様でした。
文字通り全てを出し切ってこのタイムだったので、「まだまだフルマラソンに適応しきれていないな」と課題感も残るレースでした。
一方、きちんと心身が仕上がっていないと40kmからの巻き返しはできなかったはずなので、今回もピーキングはしっかりとできていたのだという自信にはなりました。
2シーズンに渡ってサブスリー・サブエガと節目の記録を達成でき良かった半面、悔しい思いをした場面もあり、更に課題も見付かっているので、これからも走り続けていこうと思います。
始めに私をランニングに誘ったお二方も、ノリで誘った相手がまさかここまで沼にハマるとは思っていなかったでしょうね(笑)