様々なる意匠 または 人生いろいろ | 北京の秋 南京の冬

北京の秋 南京の冬

タイトルとは裏腹に親台湾派です(笑)おっさんです。話はグダグダです。それでもよろしければ。

梅雨も明けないうちからお暑うございますね。よほどの都会でない限り、屋外ではマスクなどしないほうが健康によろしいのではないかとつくづく思うこの頃。

 

 

しばらく前に、

「「多様性」を叫ぶ人が他人の多様性を認めなかったり、「寛容」を訴える人が他人の主張に対して不寛容だったりする現象がしばしば見られる」

という主旨のことを書いたことがある。

 

 

 

「そういう人たち」にも自覚はあるようで、そういった批判に対して、哲学者カール・ポパーの以下の言説がしばしば引用される。

 

 

カール・ポパー(1902-94)はオーストリア生まれ。両親はユダヤ系だったがキリスト教に改宗している。1937年、ナチスドイツによるオーストリア併合の危機が高まるとニュージーランドに移住。この図の原典「開かれた社会とその敵」はこの時期に書かれている。

 

 

 

この画像では露骨にそれと描かれているが、ポパー先生の発言がナチスを意識していることは間違いないだろう。

 

 

 

 

ナチスやヒトラーといえば、現代社会で「批判しても誰からも文句が出ない」希有な存在であり、「絶対悪」と言っていい。とはいえ、相手をそれになぞらえて悪魔化することで、「自分が考える不寛容」に対する不寛容を正当化することには賛成できない。

 

 

 

 

そう、この論法には、「誰が「不寛容や迫害を説くいかなる煽動」を判断するのか?」という大事なことが欠けている。「俺が判断するよ」と言うのならば、それは単なる独裁であり、まさにナチス的である。原著には本当にこのように書かれてるんだろうか。一部の人たちがお得意な「都合のいいところを切り張り」なんじゃないかと疑っている。哲学者ともあろうものが、私みたいな普通のおっさんにツッコまれるようなことを平気で論じるとは思えないのだが。一度原著に当たってみようと思うが哲学書は難解なんだよなあ…

 



自分と考えが違うことについては、論争すればいいのであって、どんな「危険思想」であっても考えること自体に対しては寛容でなければならない、と思う。「多様性」についても同様。「多様性を否定する考え」も多様性のひとつと考えなければ。

 

 

 

最後に、また外国の漫画を紹介しておく。

(原画はなくしてしまったので、字だけで説明)

 

 

一コマめ。

 

講演会場。

 

演者1「私は、黒人であることに誇りをもっています」

会場から拍手。

 

 

二コマめ。

 

演者2「私は女性であることに誇りをもっています」

 

大きな拍手。

 

 

三コマめ。

 

演者3(車椅子に乗って)「私は障害者であることを誇りに思っています」

 

拍手喝采。

 


四コマめ。

 

演者4「私は健康な白人男性であることに誇…」

 

壇上に駆け上がってきた聴衆に袋だたきにされる。

 

演壇上の垂れ幕には「多様性を考える集会」。