私の兄は、出生したすぐに発熱が続き、左脳にダメージが残り半身麻痺や知的障害が残り育ちました。


 幼少期を思い出すと、兄がいつか「ちゃんとした兄」になってくれるものだと信じ、着替えの手伝い、装具靴を履く手伝いなどやっていました。


 小学校中学年になると、物心もつき、兄は高学年、同級生達にイジメられる姿を何度も目撃もしました。弟として、いじめる相手に飛びかかる勇気もなく・・・

 そんな兄を恨んだり、親を恨んだり、本当に嫌な少年でしたし、嫌な少年期でした。


 そんな兄には特技があり、独創的な工作物を作ったり、京都市営バスのバス停を完全に覚えていて、どこに行くにはどこから何番に乗って行くのかを教えてくれたりもしました。


 身体障害者と上手く暮らされている家庭もあるとは思います。しかし、うちは、毎日怒号が飛び交うような家でした。家庭は荒れ、ちょっとした非行行動で親を悩ませもしました。


 それから私も成長し、兄の存在はかけがえのないものだと感じています。

 私、妹、弟も力強く生きられるのは、ハンディを背負った兄の存在があってこそ。


 では、兄は産まれて来なかったら良かったのか、生きている意味はないかと、兄自身思っているかも知れませんし、思っていないかも知れません。

 ただ、言えるのは、弟妹達の活躍を誰よりも喜んでくれる兄ですし、家族にとっても兄の存在は欠くことはできません。今では、年老いた両親に心配りができるようになり、心強い存在です。


 人は、事故でハンディーを背負こともあれば、病気でハンディーを背負う事もあると思います。

 歳を取れば100%なんらかの「病」におかされます。早いか遅いか。


 兄のお陰で、ハンディがある方と、たくさん出逢いました。


 ハンディがあるからこそ「見えてくる世界」

「人に共感ができる」などなど、


 「自分にしかできない事」「自分がやらなきゃ」など一歩踏み出せる事もあるかも知れません。


 もし、自分が「病気で不幸」だと思ったりしていても、誰かが見てくれていますし、


「誰かの生きる力になります!」