ー一人の練習は寂しくなかったですか?
むしろ、自由に曲をかけて練習できるし、全然マイナスじゃなかったです。ブライアンは「モチベーションを保つの大変じゃないか」と心配もしてくれたけど「でもユヅルは大丈夫でしょ」と言ってましたよ。自分自身、絶対、ここ(上海)にあわせようという気持ちがすごくありました。
(2015年 キャノン・インタビュー、上海にて取材)
![ガーン](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/020.png)
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2014年全日本。あごの絆創膏もまだ痛々しいです。この時、既に腹部の激痛に耐えていたとは
ー12月の全日本選権のあと手術と聞き、驚きました。他に選択肢はなかったのでしょうか?
4cmほどおへそに沿って切る、開腹手術でした。それが一番、傷口が少なくて筋肉へのダメージが少ない方法とのことで、提示していただきました。全身麻酔での手術で2週間の入院。筋膜を縫ったので、手術後は日常生活の中では常に注意して下さいとのことで、自宅に帰ってからは4週間ほど安静にしていました。
ー安静期間が長いので、焦りがあったのでは?
筋肉が落ちていくことへの焦りはありました。だからイメージだけでも強く持とうと思ったんです。グランプリファイナル時など調子が良い時の映像を『ああこういうタイミングだったよな』と繰り返し見て、イメージの中でジャンプを跳びにいくという練習をしました。イメージトレーニングのお陰か、氷に乗った時の感触は心配していたほどは変わりませんでした。
ー4回転の着氷で捻挫したと聞きましたが、焦っていたのでしょうか?
むしろ逆ですね。世界選手権まで2カ月ぐらいあるし、だったら4回転ジャンプをフリーで3つに戻したいという気持ちがあったんです。だからプログラムの通し練習をものすごく数をやって、『演技後半の疲れたなかでの4回転』という練習を多発して、怪我してしまいました。反省点ですね。
ー結局、練習再開は3月上旬。トロントまで練習に行く時間が無くなってしまったのでしょうか?
手術後の体調の不安や、長時間フライトの負担を考えて、試合も日本から近上海だったので、日本で練習することになりました。
ートロントに行かないとコーチに怒られちゃう、なんて考えました?
いや、それは無いです(笑)。ブライアンは、何よりも僕の体調を心配してくれていて、『なにか命令しないと』と迫ってくるタイプじゃないんです。僕がリラックスした状態でいられるよう、いつもの態度をキープしてくれました。そんな気遣いをしてくれたブライアンに感謝の気持ちで一杯です。
ー会えないまま、どんな練習方法を取ったのでしょう?
とにかく毎日メールしました。ジャンプが狂っている部分も、全部メールで相談したんです。英語で説明するのは大変でしたけど。ブライアンは僕の元々のクセを良く理解してくれているし、中国杯とかグランプリファイナルとかの動画から、良いジャンプと悪いジャンプを見比べて、『ユヅルはこういう傾向があるから、こういう時はこう修正してみて』というようなアドバイスをもらいました。それでジャンプの感覚はだんだん良くなっていきました。
ー会って指導を受けるのに比べたら、ズレもありましたか?
ジャンプをミスした時、リアルタイムにアドバイスが無いのは辛かったですね。でもブライアンやトロントのコーチ達から言われる注意点って、今はもうほぼ同じで、つまり自分はここを注意さえすればいいという部分が確立されてきているんですね。だから基本的には、ここ3年間いつも注意されてたことを注意しました。
ー世界選手権まで3週間のみ。何を心がけましたか?
とにかく曲をかけて通しの練習をすごくしました。昨夏より、グランプリファイナルより、本当に何回も通して、体力を付けました。だから全日本選手権よりも良い状態まで準備出来たと思いました。
ーそれで、試合に出ることを決断したのですね。
いえ、棄権という選択肢はありませんでした。それは自分が現役スケーターだからです。そこに何も不思議な感覚がなくて、僕は日本代表として選ばれたからには滑って戦わないと、と。それに自分が出たいと言ってるワガママに家族や周りの人が付き合ってくれたからこそ、好きなスケートを幸せに滑ることができる、という思いでした。
ーそして迎えた世界選手権。上海でトロントの仲間と再会しましたね。
会ってすごくホッとしました。ブライアンもホッとした表情をしていましたし。そして僕の練習をみて『これだったら大丈夫だね』と言ってくれて安心しました。今回ここで会えてよかったと思います。
羽生くんは、11月8日の中国GPで負傷して(カナダではなく)日本に帰国してから、3月 末の上海ワールドまで、4ヶ月半以上も、一人で練習し、指導はリモートのみで過ごしていたのですね。
私は、2月の退院後にカナダ・クリケットに戻ってコーチと練習しているとばかり思っていたので、このインタビューを読んで初めて、こんなにも長く一人きりで、コーチの直接指導抜きだったと知り驚きました。
でも、この時の貴重な経験が、その後の羽生くんの競技人生に多大な貢献をしたことは確かです。
ー改めて、大変な一年でした。
本当にたくさんのアクシデントがありましたが、すべてがマイナスではありません。人生にとってスケーターの期間って、3分の1か、4分の1。この期間すべてがセカンドキャリアに活きてくる時間です。今スケートを始めて16年目ですが、事故やその他の色々な経験、僕にしか出来ていない経験がたくさんあります。それを後輩達に伝えていける立場になれたらな、と思います。スケートという場所に限らず、色々な幅で活動できればと思っています。
ー世界選手権を戦い抜きましたが、いま胸の中に湧き出る思いは?
感謝です。感謝を言い始めたら止まらないです。一番は、スケートをさせてくれた家族。こんなにお金が掛かるスポーツなのに、子供の頃、僕がやりたいと言った気持ちを大切にしてくれたのですから。あとはこの世界へ僕を引き込んでくれたソルトレイク五輪、そしてエフゲニー・プルシェンコ選手、たくさんの恩師とブライアン。あと靴もそうです。自分の体重の何倍もの負荷に耐え続けて、自分の足首や膝を守ってくれた靴。このシーズンが終わったら靴にもまた感謝して、ちゃんと取っておきます。
(2015年3月29日、キャノン・インタビュー、上海にて取材)
2017年の平昌オリンピックのシーズン開始早々に右足靭帯損傷の大怪我をした際も、
2018年11月、GPシリーズの最終戦、ロシアGPで同じ怪我をした際も、
そして、2020年4月以降、現在に至るまで、世界的な新型コロナか染爆発により、カナダに渡航できなくなっても、
羽生くんは、それまでの過酷とも言える辛い経験から学び、自分の中に、為すべきことの確固たる指針を備えました。
すなわち、たった一人でも、またはリンクに乗れない時でも、如何にして訓練を続けるかという術を体得していったのだと思います。
先日の早稲田のインタビューでも分かる通り、
論理的かつ客観的に自分を俯瞰できる羽生くんなればこその習熟でしょう。
「学ぶのであれば、集中して自分のものに、自分の血肉にしたい」
とも語っていた羽生くん。
まさに、経験から学び、知識から学び、自分の血肉として、自身の競技に活用していらっしゃいます。
その聡明さ、その謙虚さ、
それらを知るにつけ、私は、また何度目かわからない沼に陥るのです。
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【今年もよろしくお願い致します】#羽生結弦 選手が今年も24時間テレビに出演。
— news every. (@ntvnewsevery) 2021年8月12日
東日本大震災から10年。想いをスケートで届けます。
8月21日・22日放送
※放送日時詳細は未定
※アイスショーは無観客で一般公開はありません#newsevery #速報#想い24時間テレビ#フィギュアスケート pic.twitter.com/xIGqP81KYX
羽生結弦 震災から10年 想いを込めたSPアイスショー「24時間テレビ」で放送
— ∞ (@aim_high__) 2021年8月12日
「僕自身、笑えなかったり、苦しい時だったりたくさんあるんですけど、それでも前を向いて一歩ずつ歩いて行こうという想いが届けばいいなと思っています」https://t.co/es1N826OX6 #24時間テレビ pic.twitter.com/pNRHcawPTr
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色白の羽生くんに、ピンク色のTシャツが良くお似合いです