心理療法の形と意味―見立てと面接のすすめ方―
溝口純二著
金剛出版 2004
より引用
言葉が人の中に入るには、基本的に
その言葉があたかもその人自身が発したかのような言葉、
自分で自分に向かって言っているような言葉で
あるとよい。
自分で自分に言う言葉には、「自分のもの」で
あることによって、「自分のものではない」言葉よりも、同化されやすい。
心理療法場面でそうした言葉が生じるためには、
CLとTHという二人が存在するのではなく、
CLだけが存在しているような状況が必要である。
(中略)CLの心を100%ピタリと表現するような言葉はない。
それはTH個人の能力というよりは、
言葉の限界である。たとえ詩人がどのように
努力しようとも、「こころ」を完全に表現することは
出来ない。
これは言葉に意味や価値がないということではなく、限界があるからこそ、人の自由がある。
すなわちTHの不完全な言葉によって、CLの中のもやもやと動いている物が刺激され、そして完全な表現ではないからこそ、その言葉とこころの中のもやもやとの間にギャップが生じる。
このギャップによって、CLの心に動きが生じる。
すなわち主体性が生じるのである。
このことは言い換えれば、完全にピタッと言い当てるような言葉を発しないようにするということである。
これは通常言われていることと、矛盾するかもしれない。THはCLの気持ちに合った言葉を言うことが望ましいと教えられるからである。
しかし私はここで述べた理由によって、CLの気持ちに合った言葉というのは100%ピタリと合った、全く隙間のないような言葉では無いと思う。
あまりにピタリと合い過ぎると、それは隙間のない不自由という感じがする。
一杯に水の入ったビンにふたをするときに、その水のためにふたがピタリと張り付いてしまったような、そんなイメージである。
例えば、私の言葉に対して、CLが「そうなんです」と言うことがある。
私が伝えたコメントが、ピタリと合っていた気がして、CLのその返事を聞くと嬉しくなる。
しかしその後のCLの様子を見ていると、この「そうなんです」はあまり発展しない。
私たちが一致した認識から、CLが自分なりに自己認識を深めていく、
ということをあまりなかったように思う。
しかしこうした言葉の不完全性によって、
私がどのように言葉を磨いても、CLに完全に届く言葉にはならない。
だから実際の日々の臨床では、ひたすらCLに寄り添う言葉を見つけることが正しいのである。