江戸時代、岩槻には岩槻城があり、太田氏が城主でした。太田氏だけでは、ピンと来ないかも知れませんが、江戸城や河越城を築城した太田道灌が家督を継いでいました。
家系を遡れば、下野国の貴族・武将で、平将門追討により、下野・武蔵二ケ国の国司と鎮守府将軍となった藤原秀郷に連なり、武蔵国内の太田荘(おおたのしょう=荘園)が勢力基盤となった一族です。
太田荘という名称は武蔵国に限らず各地にあるようです。「太」というのは「立派な」という意味を持つので、それも無理のないことですね。
岩槻は、日光御成街道の宿場町でもあり、また将軍家の鷹狩りを岩槻城主が迎えたという記録も残されていて、昨年から鷹狩り行列が行われるようになりました。
明治初期の廃藩置県で、埼玉県が設置されたときには、岩槻は県庁所在地となるはずだったのに、適当な建築物、建築用地がすぐには手配できず、埼玉県設置前の浦和県設置時に使用していた県庁を「仮に」と県庁に定め、そのまま「仮」が本決まりになってしまったという経緯があります。
2005年、岩槻市がさいたま市に合併し、そろそろ新制「岩槻(区)」を盛り上げるイベントを!ということでしょうね。
鷹庄と将軍の行列のほかに、岩槻城主の出迎えの行列もあるんですよ(^^)