ピピたん | 書きなぐり。

ピピたん

フーゾクで働いてた時、「うらん組」というグループを作っていた。

当時、フーゾク店は、他のお店の女の子と仲良くしてはいけませんという風潮があり、他店のスタッフや女の子に会わないように、わざわざ通勤路を課していた店もあった中、わたしは様々な業種の女の子を集め、月に一度飲み会や遊園地の遠足や、行きやすい性病検査のできる病院一覧を載せた会報などを配る などと言った活動をしていた。

 

わたしは当時もうすでにイラストや文章の仕事もしていて、「うらん組」は、その連載ページにケータイ番号を載せるという乱暴な組員募集の仕方をしていた。

 

他のお店の人から取材拒否をたくさんされた。

女の子は、他のお店の情報を知ると、いかに安く働かされていたかと知り、女の子について行って、お店をやめてしまうのだ。

だからわたしはお店の人には当時嫌われていた。

 

うらん組の女の子にピピたんという女の子がいた。

老舗の店舗型ヘルスで働いていた女の子だった。

 

私たちは家が近いということもあり、他の組員よりも仲良く、よくうちに呼んで遊んでいた。

 

そしてその頃、私は、以前所属していた団体の社長と知り合うことになる。

社長は言った。

「プロレス観においでよ」

 

なんかやんかで私はピピたんを誘い(一人だと心細かった)

プロレス会場で売店係をすることになる。

そのうち、休憩時間にリングの上で新作Tシャツの紹介などをするようになった。

私たちのチーム名は「ノーブラー」。

その頃私は全然プロレスを追っておらず、なんとなくどこかの団体で「ノーフィアー」と言っている人がいたようないないような?というぐらいの知識で、ソレを文字って「ノーブラー」というチーム名を作った。

 

私はセックスをしないと人と喋れない病気(?)なので、リング上でマイクをもつことはなかった。

そこは呑気なピピたんにマイクを預け、私がTシャツを一枚一枚脱いで、ピピたんに紹介してもらう、って形で毎回売店で脱いだばかりのTシャツを売っていた(これは、ブルセラなのだろうか)

 

ピピたんはリングの上に立って言った。

「みなさ〜ん、元気ですかぁ〜!」

アントニオ猪木である。

客席がざわつく。ピピたんは何も知らないし気づかない。

隣で私は笑いを堪えるのに必死だった。

 

そのうち私たち、自分たちのTシャツを売ったり、二人お揃いの格好をしてリングに上がり続けた。

 

売店時は売店ガールをし、試合中は試合を見る。

試合を見ていると思い出す、15歳の時の記憶。

 

私、プロレスラーになりたかったなぁ。

 

そんなことを考えながら、売店ガールを続けていた。

 

ある時は京都まで自費で行き、インフォメーションコーナーをやらせてもらったこともある。いい思い出だ。

 

私たちは仲が良かった。

これからもずっとこうして売店ガールを続けようと思っていた。

 

が、お互い大声を出すような大喧嘩をしてしまい仲違いしてしまう。

 

ピピたんは当時、私がイラストが文章ではたらくことを羨ましいと思っており、私のようにライターになりたかったようだった。

そこで、私が紹介した(セフレの)ライターに仕事をもらって浮かれていた。

 

「今度、女の子の取材に行ったらその後3Pするの」

ピピたんは自慢げにそう言った。

「…3Pって仕事なの?」

「私とヤリたいって言ってたもん」

 

いや、そうじゃなくて。

3Pするためにライターみたいなことをさせてもらえるだけなんじゃないの?ナメられてない?っていうかライター、私のセフレなのに、紹介した女の子に手出してんじゃねぇぞ?ナメられてるのは私も一緒か。

 

結局その話で、私たちは仲違いした。

結局ピピたんが3Pしたのかどうかは知らない。

そのライターにも、ピピたんにも呆れた。

もう、どちらとも連絡を取るのをやめた。

 

そして私は一人になった。

ソレでも会場には出向き、売店係をし、試合中は試合を見てた。

そのうちマネージャーをやらないかという話になり、「昭和子」が誕生する。

その子と決別してて良かった。

 

結局、ピピたんは、すっぴんという雑誌だったと思うが、ソレのグラビアが原因で親バレしてしまい、表舞台には出なくなった。

噂では、上野のソープにいるらしいと聞いたが、それももう20年前の話。

 

ピピたん、元気かな。

って思うぐらいには、セフレの取り合いしたことがばかばかしくはなった。

 

私も大人になったと思う。